今日の午後は四万十市下田にて文化的景観の現地研修会。
四万十川流域では、流域5市町(津野町・梼原町・中土佐町・四万十町・四万十市)の教育委員会と高知県文化財課、それに私たち四万十川財団が一緒になって「四万十川流域文化的景観連絡協議会(長いので普段は「文景協」といいます)」という会を作り、情報共有や文化的景観を活かした連携事業を行っています。平成25年からの3年間は全国の大学から学生、大学院生を招いて流域の景観を学び、活かし方を考える『学生キャンプ』を行いました。その中で浮かび上がってきたのが「自分たち自身がもっと地元の景観について理解を深める必要がある」ということでした。それではということで、ここ2年間、各市町が順番で幹事となり現地研修を行うということをしています。ここ、四万十市下田で5回目。
四万十市教育委員会生涯学習課の川村さん、鈴木さんに案内してもらいながら巡ります。四万十市の重要文化的景観・事前学習会の資料について興味のある方は下記リンクからDLしてご覧下さい。
四万十市と地元の子どもたちで作ったこんな素敵なマップもあります。
下田は四万十川の河口にある街です。歴史的には中世に幡多の玄関口として大きく発展しました。とくに近世以降、舟運により富を得た豪商が軒を連ね、蔵や倉庫が立ち並び、流域のさまざまな物資が下田を経由して運ばれていました
四万十川の河口は砂州の堆積で河口部が閉口してしまうことがあり、船が入れなくなることもしばしばで、港湾の維持には苦労が付き物でした。大きな船は水深の深い沖に停泊し、荷物の受け渡しは小型の舟が使われ、ナカセと呼ばれる女性たちが舟に荷物を積む仕事を請け負っ ていました。ナカセは非常に稼ぎのいい仕事だったらしく、下田の女性は金払いがいいと言われたそうです。かっこいいですね。
最初に行ったのは水戸地区にある避難タワー。前回の中土佐町久礼とは違って、名前は付いていません。下田の街が一望できます。
避難タワー下の広場にあった椅子。住民が日向ぼっこしながら話しをするのでしょう。いかにも下田らしい場所です。今回は行きませんでしたが、下田漁協の下にはいつも数名のおんちゃんが集まって話しをしています。
途中にあった畑。奧の植え込みの向こうはもう海です。管理機でたたいた後のようですが、水戸集落が砂州の上にあることがよく分かります。
下田には2つの避難タワーがあって、こちらは東側にあるタワーからの眺望。
このタワーは、幕末にあった砲台跡に建てられているそうです。
避難タワーは、いざというときにすっと行かれることが大事ですから、日頃から親しみのある場所である必要があります。 このタワーは盆踊りの会場としても活用されているそうです。いい取り組みですね。
西側のタワーについてもう一つ。このタワーから間崎の大文字が見えるんですが、
※ちなみに間崎の大文字焼きはこんなです
こちら側にも「大」の字があって、間崎の大文字と同じ旧暦8月15日にここで火を焚くそうです。以前は毎回作り直していたそうですが、このタワーを造るにあたり、コンクリートで固定化したんだとか。
さてさて、今回の下田の景観学習会ですが、ポイントは大きく3つ。
一つ目は塀。
下田には、「バラスブロック」で積んだ塀が多く見られます。下の写真の1段目、3段目、5段目に見える砂利(バラス)が表面に見えているのがそれ。下田にこのブロックを作っている人がいて、一時かなり流行ったらしく、集落内のあちこちで見ることが出来ます。それだけでなく、 四万十川流域でも注意してみると、このブロックを使った塀を見つけることが出来、そんな所にも川を通じての上流と下流の文化交流が見られます。
かつて栄えた町らしく、他にも煉瓦塀など様々な意匠の塀が見られます。煉瓦は関西から運ばれてきたものだとか。当時としてはかなりハイカラな造りだったと思われます。
さて、塀についてそれだけでは終わりません。下田の塀を見ていて気づくのが、その低さ。建築で言えば腰板くらいの塀が多く見受けられます。ほとんど目隠しとしては機能していない。
でも、その代わりといっては何ですが、植え込みがちょうど生け垣のように配置されていて、目隠し代わりになっています。下田地区を調査した京都工芸繊維大学の清水先生によれば、これは生け垣→コンクリ塀への変遷の名残かもしれないとのこと。
こんな感じで塀に沿って植え込みが配置されています
下田の景観を理解するポイントの二つ目は石垣。
たびたび増水で被害を受けてきた地区だけに、低い地区は石垣で土台を上げているのはもちろんなんですが、今回我々が気にしながら歩いたのはこの石垣。
知らなければ何の変哲もない石垣ですが、実はこれ、かつての河岸です。つまり、今我々が立っている所はかつて竹島川であったということ。だいぶ埋め立てたことが分かります。
このあたりには木炭倉庫が並んでいて、上流から運んできた炭などの物資を直接川から上げていました。そこで活躍していたのが、先ほど書いた「ナカセ」と呼ばれる女性たちでした。
さて、下田の景観を理解するポイント3つめは、太鼓台です。詳しくは川村さんの書いたウエブマガジン四国大陸の記事を読んでください。
注目すべきは「昭和初期頃の写真を見ると、女物のワンピースを着て化粧を施した屈強な男たちが太鼓台を担いでいる。化粧をして誰だか本人確認できない状態で喧嘩をしたとかしないとか。。。港町ならではの気質が伺える逸話だ。 」の部分。下田の太鼓台は喧嘩祭りで、下田の太鼓台と水戸の太鼓台が鉢合わせると喧嘩になる、それで、誰だか分からないよう女装してそれに備えておくんだそうです。絶対ばれると思いますが。
他にも、重要構成要素や当時を偲ばせる美しい建築物などを見てまわりました。
(注)弘田長 ひろた・つかさ 1859−1928 明治-昭和時代前期の医師。
安政6年6月5日生まれ。熊本県立医学校(現熊本大医学部)校長をへて,ドイツに留学。明治22年帝国大学教授,小児科主任となる。養育院医長,宮内省御用掛もつとめた。昭和3年11月27日死去。70歳。土佐(高知県)出身。東京大学卒。 (講談社 日本人名大辞典より)詳しくは長が創設した「和光堂」のサイトをご覧下さい。
文景協のみなさん、一年間お疲れ様でした。諸事情あって最後の集合写真は何人か欠けてしまいましたが、また来年もよろしくお願いします。
この春の異動で四万十町教育委員会生涯学習課の井上稚美さんとはお別れです。一年間という短い間でしたがお世話になりました。新天地でのご活躍をお祈りします。