夕部 善久(ゆうべ よしひさ)
ゆうべさんの基本情報
・1946年9月生まれ
・四万十市 不破出身
・好きなこと 魚釣り、陶芸、うた
昔は、四万十川があふれ出てた
現在ゆうべさんの暮らす具同は、もともと四万十川の親水地。堤防がない時は、いくつもの川筋が流れ島々が点在しているような地形だった。ここに田畑を持っている人が多く、夕部家もそこで百姓をしていた。
洪水が多いので人家は不破や今の役場の周りの山の裾にあった。堤防前は具同に家を建てることはまずなかった。土地改良事業で堤防ができると聞き、百姓をするのに赤鉄橋を渡るのが大変だったから、その少し前に家を建て今に至る。
堤防ができた後だけど、昭和38年にすごい大水が出た。古津賀は大浸水!堤防は越えなかったが中筋川の合流から逆流して具同周辺も商店街の方まで水が来たよ。逃げたけど腰まで水が来てた。
ゆうべさんから当時の写真をたくさん見せていただいた。
小さいころ
百姓だったので家族は田んぼ仕事。世話をしてもらったような記憶はない。学校帰りにチャンバラをしたり、河原にスコップで穴をあけて陣を作ったり。タコを作ってあそんだり。友達と遊んでいて部落の人から注意されたり教えてもらったりすることが多く、部落全体で子育てしているような感じだった。
小学生から中学生の頃は「ぷっすり」でエビを獲った。高校生になると、夕方四万十川で鰻のコロバシをつけて、朝4時に上げに行っていた。鮎は中瀬にふんずけるくらいいた。鰻もかなりいて、石を起こすと顔がのぞくので銛で刺してとっていた。
四万十川は本当にキレイだった
四万十川は本当にきれいだった。遠くまで澄んで見えるから、川底にへばりついて、じっと待ち、チヌを獲ることもあった。のどが渇けばそのまま川の水をのんだ。トイレの汲み取りに使ったバケツを川で洗ったり、障子を洗ったりして、川が洗い場だったが、それでもキレイでなにも思わなかった。川底に石の色や模様まではっきり見えた。
川が遊びの半分!みんなで泳ぎに来て、中高生が監視をしてくれた。お互い子ども同士で助け合いをしていた。
仕事
長男だったので、家の後を継ぐという意識がずっとあった。電気の仕事をしたかったが、親に反対されつつも無線課のある高校へ行くことを許された。
その後、中村の測候所(通報所)の仕事を父が見つけてきて、そこで気象情報を本庁に送信する無線通信士の仕事を3年間した。その後、高松、大阪、東京、札幌に転勤し、四万十を離れ定年まで働きぬいた。
仕事でどんどん四万十を離れたが、故郷への想いは変わらず、15年前に地元へ戻ってきた。それからは親の仕事を手伝い、フリージアや芍薬の花を栽培して市場に出している。
好きなもの
・釣りバカクラブ
同級生4人で釣りに出かけることが多い。愛媛から大月にかけてグレを釣りに行く。カマスやキスも。
・陶芸
大阪にいるとき地域の陶芸倶楽部があり、そこで覚えた。今は自分専用の窯を持ち、陶芸教室も開催している。
自分の「よ」スタンプを作ってそこに押している。クラブでは「よ印、すごい」と言われた。25年続けている。
作品のこだわりもある。湯呑はくびれをつけて飲みやすく。取っ手は親指を置くところを作り平たく持ちやすいように。陶芸で使う独特な道具も自分で手作り。
・うた
ゆうべさんに「四万十旅情」といううたを聞かせてもらった。中学校の先生がつくった歌を散髪屋さんが歌っていて、それがお気に入りだ。四万十川の出会いの物語に哀愁が漂い懐かしい。東京に行くと、四万十川の宣伝にこの歌をうたう。
ゆうべさんの想いはアツい。四万十に戻ってからは、いろいろな地域の役員や民生委員を続けてきた。今後も四万十川や地域のために奔走すると意気込んでくれている。これからもよろしくお願いします。