四万十川は昔から暴れ川で数多くの水害があり、流域各所に水害の話が残っている。今回は、最下流の街、四万十市中村の水害の記憶をたどる。四万十川と後川の二河川に挟まれたこの街は、毎年の水害が避けられない地形にある。中村の人々はどうやって水害と付き合ってきたのだろうか。

中村大水害

 中村の水害史をみると、1870年からの約150年で70回以上の水害があり、平成以前は毎年のように大きな水害に見舞われていたことがわかる。なかでも特に被害の大きかった2つを紹介しよう。

明治23年9月の大水害

流域各地で最大の水害として記憶されるこの洪水は、明治23年9月9日午後3時頃から降り始めた雨から始まった。降り続けた雨は11日に凄まじい豪雨となり、四万十川と後川が増水、旧市街で一番高所と言われる京町までも瞬く間に浸水した。雨が止んでからも水位は上昇し続け、200年ぶりとも言われるほどの大水害となった。荷揚げをした家財道具も濡れ、ついには家屋が流失し、山へ逃げて野宿する人も多くいた。また、舟で避難する途中に流され溺れた人や、倒れた建物で圧死した人など、犠牲者は約60名にものぼった。(出典:中村町風水害史)

昭和10年8月の大水害

昭和10年8月洪水 四万十市立図書館所蔵

この年の水害は、記録に残る中村の最も大きな水害(※1)であったといわれる。8月27日午後8時頃降り始めた雨は翌28日の午前10時に総雨量176㎜に達し、午後4時には320㎜、四万十川本流は平水から7m上昇した。28日正午には、本流の水が角崎(つのさき)を迂回して後川を逆流し、右岸の無堤防部から不破地域へ浸水した。6時間後には2階の天井まで水が達するところもあったほどで、2階からの脱出者は1000名を超え、天井を壊して脱出した人もいたという。四万十川はその後も水位を増し、29日には新築の入田堤防が決壊、午前1時に増水がとまった。全町で退水したのはその日の夕方である。結果、全町1900戸中16戸を残し浸水し、百笑(どうめき)、不破(ふば)、右山(うやま)、角崎方面は大海のような状態で、浸水というより水没という言葉が似合うほどだったという。天神橋筋をはじめ、東西に通る町筋は奔流となって歩行できず、川舟さえも往復できなかった。いつもより増水が早く荷揚げの時間もなかったため、甚大な被害となった。警察や消防だけでは間に合わず、川舟の所有者も加わり町総出での救助作業が行われた。

町なかは水害後も悲惨を極めた。電気も水道もとまり、未整備の下水から町中に悪臭が漂い、そこら中に水浸しの畳や家具、商品、家畜の死体が散乱していた。住民たちは生乾きの敷板で雨をしのいだ。交通・通信も断絶し、救助を求めるのも難しく、行政職員は隣まちの佐賀まで無理を押してたどり着き、支援物資を求めた。新聞は飛行機からの写真で惨状を全国に伝え、義援金を募集した。郵便局・交通事業者は機能回復に全力を尽くし、機能が戻ると各地の青年団、消防隊等が応援に駆け付けた。皇室からの御下賜金をはじめ全国からの義援金は10万円(現在の6000万円ほど)を越した。

特筆すべきは、これだけの大きな水害にもかかわらず一人の死者も出さなかったことである。当時の中村町民は洪水に慣れていたので、慌てず冷静沈着に行動したことが人的被害0につながったと言われている。(出典:中村町風水害史)

(※1)この水害が最も大きな水害となった要因は3つだと言われる。

①急速な増水 増水開始から5時間弱で町内全域が床上浸水となるほどのはやさだった。その遠因として、河口の下田港口が著しい砂礫の堆積で水路が塞がれていたことと、渡川改修工事具同堤防工事完成で本流の氾濫域が狭くなっていたことがあげられている。

②浸水方面の異変 それまでは後川北西より浸水していたが、当時すでに堤防が完成しており、工事未完成の東南からの浸水で京町筋から西方面が浸水した。町民はいつもと違う増水に不意を突かれた。

③洪水への意識が薄れていた 先述の明治23年当時は明治19年にも大災害があったため対処できた。昭和の初めのころは大洪水がなく、町民たちの意識から水害が遠のいていたのではないかと言われている。

昭和3年9月15日中村町大洪水 上生山から北方を望む (四万十市立図書館所蔵)
明治44年8月16日中村町大洪水 (四万十市立図書館所蔵)

中村の浸水と治水

中村の水害の発生には2パターンある。1つ目は、後川や四万十川の氾濫によるもの(外水氾濫)、2つ目は町中の「内水」による浸水(内水氾濫)だ。大きな水害を経験してきた中村の町は、水害を防ぐ努力を続けてきた。

治水事業前の大被害

『渡川改修四十年史』によると、四万十川左岸側、赤鉄橋から下流側にある岩崎堤防は、一條時代以前から築堤されていた四万十川で最も古い堤防だと記載されている。藩政期には不破の秋葉提、右山の堤防が築かれたが、当時の技術では大河の水圧に耐えられず何度も決壊し、無堤と言って良い状態であった。万治2年には岩崎堤防が決壊し町のほとんどが流失、寛文6年には、破堤で家一軒残らず、河原に大量の死体が残った。当時の住民は、相次ぐ天災と飢饉に、今では想像できないほどの苦難を強いられていただろう。

幡多地域では経済を回すための道路整備が最優先事項であり、大きな治水工事を行う余裕はなかった。度重なる洪水に堤防の修繕も間に合わず、原始河川の姿をほしいままにし、町は幾度となく水没し続けた。

40年以上続いた渡川改修事業

県が重い腰を上げたのは大正10年だった。議会で代議士から建議案が出され、協議が始まった。他県で進む河川改修を歴訪した県会議員は、高知県の河川改修事業の甚だしい遅れを痛感したという。内務省に陳情を続け、昭和3年にようやく約700万円(現在約50億円)の予算がつき、昭和4年から渡川改修計画がスタートした。当初は明治23年の洪水を基準として流量計算が行われたが、昭和10年の大水害を受けて計画の改定が行われた。

工事は昭和5年から四万十川右岸の具同でスタートし、人力の掘削が行われた。全域がほぼ無提状態であったため、高水防御に重点を置き、四万十川と後川の両岸に地形を利用した新堤を築き、河積不足は浚渫で補った。さらに、後川と中筋川については、本流からの逆流を防ぐための背割堤防を新築した。その後工事は戦争による中断と財政難で進まず、毎年起きる水害の修復工事と計画変更も重なり、40年経っても進捗状況は32%であった。主な工事の流れについては年表をご覧いただきたい。

後川佐岡ショートカット問題≫

後川の付け替え工事について、佐岡の住民は、もとの流れに沿った(流路を変えない)工事だと思っていたが、工事が進むにつれ後川のカーブをショートカットして直線化するものだとわかった。これでは佐岡住民は耕地の6割以上を失う。集落民や農業組合は会議を重ね、河川事務所にも陳情したが、国策でやむを得ないと言われ、状況は変わらなかった。

昭和5年度竣工図 (渡川改修四十年史より)
昭和43年度竣工図 (渡川改修四十年史より)
渡川における治水事業の経過 (六十年のあゆみ*中村河川国道事務所より)
四万十川 赤鉄橋上流より空撮(2022.10.3)
後川付け替え工事付近 佐岡橋上流より空撮(2022.10.3)

内水による浸水

内水とは、排水能力を超える降雨があった場合に、水が街なかにあふれることだ。昭和初期には岩崎神社近くに大きな池があり、そこから川が天神橋商店街方面、桜町を通り、現在の中村高校前で後川に合流していた。大雨で後川が増水し上町頭の樋門を閉鎖すると、行き場を失った水が小姓町や上町の低所に溢れた。現在は、桜町に排水ポンプが設置され、増水時にも排水されるようになっている。

四万十市上下水道課に中村の雨水排水事業について聞いた。中村の町を内水から守るため、四万十市は雨水処理用の排水施設を運用し、現在は桜町、百笑、八反原、右山の4つの排水ポンプ場で224haの面積を排水している。四万十市の場合は63.7㎜/h(5年に1度)の大雨に備えており、今年9月の台風時の降雨は40㎜/h程度であったため、余裕をもって対処できた。降水量が63.7㎜/hを超えると、町は浸水し始める。特に、低い土地の住民は度重なる浸水を経験しているので、今でも雨量が多い時は心配して市に問い合わせる人もいるそうだ。

今後、この基準が妥当か再検討するため、浸水シミュレーションなども改めて行われる予定だそうだ。

中村の地図と排水ポンプ場位置 (国土地理院地理院地図より作成)

暴れ川と上手に付き合う人々

以前の中村は毎年の水害が当たり前だった。当時の人達の災害との付き合い方を見ていきたい。天神橋商店街近くに住む大田文雄さんと森本哲さん、安光哲弥さんにお話を聞いた。終戦前後の記憶である。

昔は洪水が当たり前で特に怖いとも大変だとも思っていなかったようだ。先述のように中村には岩崎堤防があるだけで、百笑のすぐ下は河原になっていて、左岸側の赤鉄橋の橋脚付近は低学年の水泳場になっていた。

当時は水が増えて桜町の排水場が機能しなくなると後川から氾濫が始まる。大人たちは四万十川の氾濫に備えて、岩崎堤防と須賀神社にある木枠に大きな柱を重ねて簡易的な堤防を作った。消防が近くの人力ポンプで排水するのを見ることもあった。外水氾濫に備えているうちに内水氾濫がはじまる。川の様子や状況で経験上水がどこまでくるのか感覚的に分かったので、町民たちはタイミングをみて荷揚げを始める。まずは、リンゴ箱をかさ上げ台にして荷物を上げ、それ以上に増えそうなら2階へ上げる。現在のように避難所に集団避難する感覚がなく、各々が安全な場所を判断して避難するため、ほとんどの人が自宅2階へ避難した。移動困難な人は近所や知人が良く知っていた。時計屋を営んでいた大田さんの祖父は、商品の荷揚げのさなか、状況の急変を見て川舟で人を助けに行き、結果上げ切れなかった商品が水没して廃業せざるを得なくなったそうだ。

水の引く時間は大掃除の時間。たわしで泥や汚物のついた家のあちこちをこすった。シャワーなどなかった時代だから、水が引く勢いを利用して掃除するのだ。そんな時でも子どもたちには楽しみがあった。街中が川や池になって水遊び場になる。板を持ってきて筏競争をしたり、簡易の舟で町を探検したりして遊んだそうだ。それを叱ったり心配したりする大人もいなかったという。

昭和21年頃の中村の地図 (安光哲弥さんより)
赤鉄橋手前の風景 簡易堤防を作ったところ(2022.10.3)

現代の私たちと水害の付き合いかた 

中村では整備事業のおかげで大きな水害は少なくなったが、今も水害にあう地域もある。平成17年の台風では市内全域で全半壊、床上・床下浸水等を含め359戸が被害を受けた。四万十市川登では郵便局、大川筋中学校、川登小学校、川登幼稚園等の主要公共施設が床上浸水となった。

「近年の異常気象により災害が多発しています。」いつ頃からか、そんな言葉が聞かれるようになった。近年の集中豪雨では、天神橋商店街の低いところでは水が溜まり浸水することが度々あり、近隣住民が土嚢を築くこともある。むしろ昔よりも凄まじい水害が起きてもおかしくない。今の私たちはどこか人任せになり、水が堤防を越え、排水が限界を超えた時、私たちだけでは対処できない。

昔の人々は実体験で水害との付き合い方を知っていた。昭和10年の洪水が良い例だ。大被害に見舞われながらも一人の死者も出ていない。一方で、圧倒的に水害を経験する機会が少ない現代の私たちは、水害の記憶から不足している経験を補っていかなければならないが、その水害の記憶が風化しつつある。今からの私たちは、散らばった記憶を記録すると同時に、昔の経験を知識として得て、水害時に何をすべきかを判断できる力をつけなければいけない。

つまり、現代の私たちに必要な水害との付き合い方とは、自分自身が水害と向き合う態度や知恵をつけること。想像を超えるような水害が目の前に迫るとき、自分や大事な人を守れる力を水害の記憶から身につけていきたい。

天神橋商店街の内水の様子 (大田文雄さんより)
安光哲弥さんの水位確認表 
安光さんは増水時に電話で聞き取った上流域の水位上昇を地図上に落とし今後を予測している

出典

・中村市史 続編 中村市

・中村町風水害史 四万十と小京都なかむらを考える会

・四万十川赤鉄橋の町 金井明

・渡川改修四十年史 建設省四国地方建設局中村工事事務所

・新聞からみた中村工事事務所60年のあゆみ 建設省四国地方建設局中村工事事務所

・六十年のあゆみ 建設省四国地方建設局中村工事事務所

編集後記

昭和10年大洪水の写真を見た時は衝撃が走った。水害史にある中村の惨状を読むと背筋が凍った。何よりも、犠牲者がいないことに当時の人々の凄さを知った。今、水が迫ってきたとき私はどうすればいいのかわからない。記事を書きながら私自身の水害との付き合い方を考えていた。水害の記憶が風化する前に、多くの人から聞き取り、それを確実に伝えていきたいと思った。(丸石)

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