40代以上の人には葛飾柴又といえば男はつらいよの舞台ですが、実は都内で唯一国の重要文化的景観選定地になっています。今回の地区連絡協議会全国大会は、葛飾柴又の淡水魚食文化がテーマです。

柴又の名店 川千屋さんの鯉の洗い

2021年1月、柴又に悲しいニュースが流れました。創業231年(21年当時)になる川魚料理の老舗料亭「川甚」がコロナ禍による経営難を理由に閉店を発表したのです。この名店は夏目漱石の『彼岸過迄』や谷崎の『羹』などにも登場し、1969年の映画版「男はつらいよ」(注:寅さんフリークなら常識ですが、もともと「男はつらいよ」はテレビドラマで、寅さんは最終回にハブに噛まれて死んでしまいます)の第一作では寅さんの妹さくらの結婚披露宴の舞台にもなりました。今回、このタイミングで川魚を食べる文化をテーマに据えたのには、2018年2月の重要文化的景観選定まで葛飾の文化財行政を牽引してきた担当者 谷口栄さんの並々ならぬ決意が窺えると感じました。

伊藤毅先生の基調講演

 初めに「柴又研究会・柴又地域文化的景観調査団」団長もつとめられた伊藤毅先生から「葛飾柴又から考える都市と文化的景観の未来ー歴史・観光・食文化」と題して基調講演がありました。ご講演中の最初にあった柴又の文化的景観の概略については以下の動画とニュースレターをご参照ください。

葛飾柴又の文化的景観(ダイジェスト版)<2分59秒>

「葛飾柴又の文化的景観」ニュース vol.1.pdf(PDF 1.8M)

「葛飾柴又の文化的景観」ニュース vol.2.pdf(PDF 1.8M)

「葛飾柴又の文化的景観」ニュース vol.3.pdf(PDF 1.0M)

 葛飾柴又の文化的景観の特徴を、伊藤先生は3つのキーワードで読み解きます。1つ目は「都市と農村の両義的性格」です。葛飾柴又の歴史は古墳時代にまで遡りますが(後述 2日目エクスカーション 柴又八幡神社の項参照)、中世後期から近世初頭に整備された江戸川沿いの微高地上の農村が現代の基盤になっています。そこに江戸のはじめに帝釈天題経寺がかぶさるように開かれ、当時流行していた庚申信仰を取り込んだこともあって参詣客が訪れるようになり、徐々に参道の店舗ができていきました。店舗がたち並ぶ今のような参道景観は大正期以降の成立ですが、都市と農村と両方の性格を持った柴又の景観は上のようにして形作られました。
 2つ目はノード(結節点)としての柴又です。江戸時代には大都市江戸近郊の農村という性格を強めますが、もともとは江戸川を挟んですぐ向こうが松戸宿という武蔵と下総を結ぶノード(結節点)として柴又は機能していました。「矢切の渡し」をご存知の方も多いでしょう。江戸時代も中期以降になると、郊外を散策して美味いものを食うという庶民文化もできてきて、今に残る草団子や川魚料理の源流はここにあります。
 3つ目の特徴は、柴又が新陳代謝を繰り返す街であるということです。参道の店も時代時代で姿かたちを変えていますが、帝釈天の境内もダイナミックな変化を遂げて今に至っていることが分かっています。

柴又の景観を形作った 柴又PENTAGON

 柴又の景観は、江戸川が作った土地(微高地・低地)の上に、農業(生業)と帝釈天(宗教)、それに街道(交通)が折り重なってできています。それをつなぎ合わせた象徴的空間が、川魚料理屋にある生け簀なのではないかと先生は指摘します。江戸川のおかげで川の幸が獲れ、街道と帝釈天の存在が人の流れを作り、人と川の幸が出会う場所の象徴が生け簀である。先述の川甚にも立派な生簀があったと言います。今は取り壊されていますが、再生に向けて生簀に使っていた岩は残してあるということでした。

川甚の生簀跡。散乱している岩が当時の生簀の名残

1日目 第2部 事例報告・トークセッションに続く