熊田 光男(くまだ みつお)
基本情報
・津野町高野出身
・1950年生まれ
・特技:アメゴ釣り、スキー、ギター、狩猟、救急ボランティア
熊田さんと雪
熊田さんは、四万十川流域でも雪がよく降るところに住んでいる。幼いころは毎年雪遊びを楽しんでいた。特に、昭和38年豪雪では1m以上積り、すぐ近くの小学校が1か月休校になるほどだった。この時、天狗高原は4mも積もった。休校期間は大いに楽しんだという。竹を割ってスキーやソリをしたり、かまくらに布団を入れて寝泊まりしていた。集落の住民はというと、雪に閉ざされ外部と行き来できない危機的な状況だったが、そこら辺にいる獣を獲り、冬前の備蓄を少しずつ食べながらそれなりに暮らしていた。
そうやって、雪と過ごすうちにスキーが大好きになり、青春時代は天狗高原で脚(?)を磨き、全国のスキー場で滑った。インストラクターの資格もとってしまったそうだ。今でも、全国あちこちでスキーをしている。
自然とあそぶこと
冬だけでなく、四季を通じて自然の中で遊びまわった。ポケットにナイフを忍ばせ、自然の恵みを存分に享受していたようだ。
小学校高学年になると、狩猟に興味を持った。お父さんについて猟へ行き、獲物の獲り方を覚えた。家のいろりの周りで父と祖父が鉛弾を作るのを手伝うこともあった。初めての猟は中学生のときで、大人に混じってウサギを仕留めた。猟銃免許を20歳でとってからは、グループで行う「まき狩り」や、一人でキジやヤマドリなどを狩り食料とした。
取材当日もイノシシを獲ったところだった。取材中に「浜亀ラマン」で有名な溝渕幸三さんが偶然にも熊田さんを訪ねてやってきた。40年以上の仲でたまにフラッと立ち寄ってくれるらしい。イノシシの罠に興味津々の溝渕さんは、熱心に熊田さんから技を教えてもらっていた。とても仲の良いお二人でだった。
熊田さん、アメリカへ行く!!!
熊田さんは、海外が今よりはるか遠い時代にアメリカに行っている。農家の長男だったので家業を継ごうと思っていたが、ある時先輩から、アメリカで1年間の農業実習生をした話を聞いたのがはじまりだった。「行ってみたい。外の世界を見てみたい!外国から日本、ふるさとを見ると役に立つだろう。」とアメリカで農業を学ぶことを決めた。両親は反対もせずに送りだしてくれたが、息子とは二度と会えないかもしれないという覚悟があったらしい。
アメリカでの経験は宝物 日本へ帰りたくない
アメリカへ渡った熊田さんは見たこともない世界にものすごい衝撃を受けたという。「トレーラーハウスに住むことになって、中は立派な住宅でびっくり。今では当たり前だけど、箱ティッシュ、食器用洗剤、ペーパータオルとか、日本にはないものが全部ある!驚いたね。」
何もかもが新鮮で刺激的だった。仕事は、日本人経営者の農園で出稼ぎに来たメキシコ人やポルトガル人と一緒に菊の栽培をした。ナイトスクールで毎晩英語を学び、仕事場では様々な言語が行き交う。そうこうしているうちに、若かったので3か国語くらい話せるようになった。週1回、ショッピングセンターに連れて行ってもらい、生活に必要な物品や食材を買って自炊し、ハンバーガーやステーキを食べた。ライブハウスやボーリング場にも遊びに行った。一番の思い出は、グレイハウンドバスでアメリカ大陸を横断したことだ。丸4日間かけてサンフランシスコからニューヨークへ。まさに、カウボーイの景色!西部劇が好きなのでとても面白かった。オアシスという休憩所で様々な地域にも立ち寄った。ニューヨークではエンパイアステートビル、ツインタワー、貿易センタービルに登った。素晴らしかった。
「刺激的なアメリカの生活も1年だけ。帰りたくない!と思ったけど、しょうがない。」。後ろ髪引かれる思いで帰国。アメリカが第2の故郷となった。
村の青年たちを海外へ!
日本に帰ってから、農業や国民宿舎天狗荘での仕事もしたが、このままじゃいけないという思いも募っていった。
帰国後しばらくして東津野村(現津野町)役場の社会教育主事に採用され、青年の社会教育に関わることになる。この村の青年を海外に連れて行きたい。自分がアメリカで得たものを若いうちに経験させてあげたいと思うようになった。熊田さん自身は、もともと引っ込み思案で恥ずかしがり屋だったが、渡米後度胸がつき、おおらかにもなれた。自分が大きく変化したそうだ。
竹下内閣のふるさと創生1億円が支給されたとき、チャンスだと思った。村を背負って立つ若者のために使えないだろうか・・・村長とも協議を重ねたが使い道は決まらず、貯金することになった。コノヤローと思ったらしい。そこで熊田さんは、青年たちに向けて地元の自然環境を考えるシンポジウムを企画する。当時、最後の清流四万十川が注目を集める一方で開発行為も進み、川がコンクリートで」固められた。このままじゃいけない、自然を大切にしないといけないという気持ちがあった。今、有名になった四万十川の源流点としてアプローチしていこう。
シンポジウムでは「川の外科医」福留脩文先生に近自然河川工法について講演してもらった。これだ!これを学びにスイスに行こう。
村長を説得し、ふるさと創生1億円の利子を使っての海外研修が決まったのだった。結果5年間にわたり延べ48名をスイスに派遣した。
近自然河川工法を北川へ
実際に行ったアルプスの環境保全の取組みは驚きの連続だった。車の乗り入れは禁止。ある村の村長は、確かに不便だけれど、大事な自然を守るために当たり前のことだと話してくれた。そんな村がいくつもあった。スイスの河川管理のビジョンでは『1.河川を空間のエレメントとして全体的に見る(景観) 2. 安全な生活圏を基本として持続可能な開発を保障する。 3. 危険な状況を明らかにする(ハザードマップなどの広報活動) 4. 洪水対策は環境保護に配慮する。 5.極端な洪水を流すための空間を確保する(遊水地のための用地買収など) 6. 残留リスクを低減するための緊急対策をたてる。これらを実施するに当たり、洪水に対する安全性と生態系保護を基本として、土木工学者だけでなく、生態学者、景観工学の専門家および住民とともに全体のコンセプトをつくる。(総合都市研究第70号 1999 スイスの近自然河川工法の思想と実践例 小椋和子)』とあり、自然や生態系に配慮した様々な工法が川に用いられているのを目の当たりにした。
当時の北川には幅30m、高さ6mのコンクリートの落差工があり、魚が登れない状況だった。熊田さんは、これをスイス風になおしていくべきだと提案した。スイス研修参加者と一緒に何度も県土木と協議を繰り返し、国にも許可を得て、ついに落差工を作り直すことが決定した。北川は近自然河川工法を取り入れた河川に改修され、魚がどこからでも登れるようになった。この取り組みは県内のみならず全国、海外からも視察が訪れ、熊田さんは何度もガイドをした。津野町が世界に広がっていると思った。
天狗高原を永遠に守る。
スイスの村長を招いての国際シンポジウムも開催した。四国カルストに案内すると「こんなきれいなところに道路があり車が来ると排気ガスで環境が汚染される。登山列車かロープウェイにするべきだ。」と言われた。その後、風景とミスマッチだった電柱や送電線を四国電力と話し合って地下に埋めてもらって、今では電線一つないカルストの自然が広がっている。四国カルスト一帯を牧場にしようという計画にも、貴重な植物やススキの原を残したいという思いから天狗高原だけは参加しなかった。また高原を貫く自動車道も希少な植物を守るためトンネル工法とした。「天狗高原の自然を永遠に守る。」。熊田さんは、そんな強い想いを持つ中心人物として、天狗高原の環境と風景を何十年も守り続けている。
今もなお
ふるさとの自然が大好きだ。「川のことは川にきけ、釣りをすればわかる。」と熊田さんはいう。津野町は四万十川の源流点のある町だ。ここから四万十川が始まるからこそ、きれいでなければいけない。スイスのような場所を目指そう。そんなポリシーを今も持ち続けている。地元の文化財や歴史を勉強しガイドもしてきた。役場引退後は、甘唐辛子のハウス栽培をしながら、「てっぺん四万十風の会」という津野町の自然や歴史すべてを網羅したガイドを行うグループを18人ほどで組織して、その会長を務めている。
なにが地域にとって大切か
「観光業だけが栄えたらいいと思うと崩れてしまう。歴史、地域文化、自然が3拍子揃わないと発展していかないと思う。」
熊田さんの活動にはものすごい情熱を感じる。昨秋、牧野博士の朝ドラブームを見越して、高知県がこれまでの土の遊歩道を破壊してアスファルトの舗装道路を高原一帯に張り巡らせた。これには大きなショックを受けた。「風景を守り、自然を守るために活動し、いろんな人の想いが今の天狗高原に詰まっている。それが台無しになった。悔しいけど、今後をどうしていくかを考え行動しなければならない。」
熊田さんは自然を復元していくために、「天狗高原観光の発展を願う津野町民有志の会」を発足させ、県にアスファルト撤去を働きかけるように津野町長へ要望書を提出した。今後、県知事や県議会にも要望書を提出する予定だ。熊田さんの情熱は止まることをしらない。
アメリカの話を聞き、帰国後の精力的な活動に目を見張った。今現在も、新たな活動をはじめようとしている。これからも四万十川の源流域をよろしくお願いします!