松下 和孝(まつした かずたか)
基本情報
・1944年生まれ
・四万十町久保川出身(旧昭和村)
ポケットにはナイフ
地元の人に愛されて100年以上、四万十町十和の「松下商店」。今日も松下商店にスーパーやコンビニでは手に入らない「何か」を買いに行く。元店主の松下和孝さんは、なんと面白い人だ。止まらない興味とおはなしをじっくり聞いてきた。
松下さんは、四万十町の旧昭和村久保川に生まれた。久保川は大道という山深い地域への入口にある。久保川小学校はすぐそこに。昼ごはんには家まで戻ってきていた。小学生の時はポケットにナイフを携え、もっぱら外で遊んだ。
「当時はみんなポケットにナイフよ。それで遊びを作る。名前は肥後のナイフ。今の携帯のような存在。まずは鉛筆削りから始める。チャンバラの刀、紙鉄砲、水鉄炮、竹馬、鮎シャクリの竿を作る。ハヤ釣りの竿は、川で火を焚き竿をあぶり曲がりを直し、水で冷やしてまっすぐにした。これ竿をタメルという。小谷(久保川川)では箱メガネの鮎シャクリ、四万十川との合流では春先にハヤ釣り。毛鉤に一度に何匹も鮎が釣れた。それだけ天然の鮎がいたわけだ。鰻もコロバシでたくさん獲れた。水もきれいだったので、昔は水道がないから毎朝川へ歯磨き、顔を洗いに行った。泳ぎも朝から夕方までいろいろしながら目がぼーっとして景色がかすむまで遊んだ。腹が減ったら川べりのイタブ(山ビワ)をよく食べた。
校庭での遊びは特にニクダンという遊びで、意味は分からないけど面白かった。大人になって「肉弾」という字だと分かって驚いた。そのほか、Sとかドッチボール、石けり、ビー玉、パン(めんこ)、ソフトボールらしきものもあったが、ボールは1個、バットも手製のもの、クラブも布の手製のもの。試合をしている時間よりもボールを探している時間が長かった(校庭が狭いので)。お宮では年上の人達と野球もした。問題はボール。ボールはぼろ布を丸くしたものでタコ糸で固め、最後の仕上げはフトン針にタコ糸を通して何回も何回も縫い上げて固くしたもの。それぞれみんなが何個も作った。大きさや形はまちまち。水たまりに入ったら重くなり、デッドボールを受けたらそれは痛かった。
真冬の寒い日、四万十川合流点の両岸の薮の中に、ナイフ等で切った柴を組んで隠れ家(アジト)を作った。グループに分かれていろんな遊びもした。神棚まで作っておかし等の食べ物はお供えした。それから親分らしき人がみんなに配分した(No2もいた)。山の木の実(サンキラの実などいろいろ)もたくさん採った。一度は親分に献上して、それから配分する。言うことを聞かなかったら、もう遊んじゃらんと言われたら目の前が真っ暗な感じだった。でも、楽しかった、面白かった。木の実のトップはアケビ。これほどうまいものはないと思った。ケンカの種になった。最初に見つけた者の争い。それからまた、ナイフの活躍。小鳥を獲るクビッチョをグループで何カ所も造った。どんな鳥がかかるかわからない。ヒヨドリ、ツグミは最高、スズメも獲れた。それを順番に分け合った。親父にお前ら株式会社を作ったかと笑われた。大人になってからも別の方法でヒヨドリは捕った。どんなグルメよりもうまい。東京ネギと一緒に照り焼きだ。みんなと食べた。他に楽しかったのが女郎クモの喧嘩、みんな庭にあちこちから捕った女郎クモを飼っていた。足の長いのが良かった。丸々太ったものが脱皮すると足が長くなり、かっこよくケンカも強かった。」
鮮明な思い出が次々と語られる。目の前に活発に走り回る子ども時代の松下さんの姿が浮かんでくるようだ。
東京のサラリーマンを体験
そんな松下さんは、東京の大学へ行った。父には大学に行かないで店を継げと言われたが、東京での学生生活、サラリーマン生活を経験したかった。
「田舎から出てきた俺はギョーザの食べ方がわからなかった。東京の友達が松下のたれを作ってやれって(笑)。友達に連れられて箱根までドライブ、芦ノ湖で1泊。スケートも初体験、ボーリングも初めて、ゴルフの打ちっぱなしも初めて。ダンスパーティーではツイストの真っ最中、他校生と入り乱れた。学校のクラブや同好会には30ほど声をかけられたけど断った(スケートは少しうまくなりかけたところで帰郷したのでおわり)。」
松下さんが就職したのはフェルト会社で、神奈川・東北地方の担当だった。ある夕方、今から東北へ行ってくれと命令があり、フェルトを担いで上野発の夜行列車に乗り込んだ。行った先の製紙会社は零細企業で、フェルトのストックがなくて操業がストップしていた。その会社がお礼に左甚五郎の一刀彫の毘沙門天を見せてくれた。1泊もらっていたので、一人で花巻温泉に行き、にぎやかな太鼓や酔っ払いの声をきいたのを今でも覚えているという。昔の話がとまらない。
「新宿では『ゴクツブシの会』に入会した。アジトは名曲喫茶ウィーン。友達以外は知らない人ばかりとの交流。活動は自由。その時は政治や世情を語った。会社では、『今日は早くおけや、今から麻雀を教えてやる。』と課長が卓を作った。またある時、今日はキャバレーに行くぞ(会社の交際費だろう、たぶん)と五反田のカサブランカに。ああこれが映画で見たあれかと思い、勉強させてもらった。」
松下商店の跡継ぎ
地元に帰ったのは東京で働き始めて数年後。戻って店を継いだ松下さんは、「さびれたと思った。仙人暮らしのようなもん。これから一生ここで暮らすかと思うと悲しい・・・。世の中の情報はストップ、なんとも愕然としてむなしい1,2年、いやもっと続いた。」と振り返る。その後、青年団に加入した。
「青年団に加入して、北幡5か町村の青年大会にも協力した。400mを全力で走り、目から火が出た。死ぬかと思うくらい難儀やったことは今でも覚えている。麻雀も地域に普及させた。毎晩7時から半ちゃん4回やった。県内あちこちのイベント、ソフトボール大会にも参加した。当時、十和地区には30以上のチームがあった。自分は地元のチームと商工会青年部などに所属した。なにをやってもその後の飲みニケーションがつきもので、楽しみの一つだった。」
青年団以外でも十和村、四万十町を通して、農業委員会、商工会、森林組合、観光協会、議会に関わった。周りからの頼まれごとが多い。
松下商店は地域の暮らしの要だった。地域のよろず屋だったから、何でも注文を聞いて配達した。小野や久保川、そして大道にも。奥まったところにある大道は一度にたくさんの注文をしてくれてありがたいが、ビールの大瓶24本の木箱は尋常な重さではなかった。年末やお盆、神祭は大忙しで、一軒一軒に電話して注文を聞き配達へ。ダットサントラックにたくさんの荷を重ねて走り回った。今の相棒トラックは、キリンラガー、サッポロビールのロゴを張り付けた三菱の軽トラック。
松下商店は104年目
松下商店は和孝さんのご尊父が1919年、18歳で創業した。103年目の昨年は株式会社無手無冠とコラボした4合瓶の焼酎を販売し、東京の方々をはじめ1000本以上売れた。現在は息子の洋平さんがに店を継いでいて、2022年1月には店舗をリニューアルした。お酒もかなりのこだわり仕入れになっていて、オーガニックのワインセラーもあり、洋平さんの奥さんのモーちゃんはタイ出身なので、タイ料理やタイの調味料なども揃えられている。
趣味
ソフトボールでは7年前からシニアの試合に参戦している。ゴルフもギターも少し楽しんでいる。73歳の時には桜木町の黒毛和牛のステーキとワインを期待して富士山に登ったが、大変だった。
最後に、松下さんに「こっちこいや。」と案内されたのが、店の奥のお庭。なだらかな傾斜に日本庭園のような大きな石や樹、果樹が配置されている。聞けば、全部松下さんがコツコツと作り上げたらしい。池にはアオサギなどから魚を守るためにネットを張っている。
「この石も重かったよ。ここまでもってきてね。ここに道をつけたら通りやすいやろ?雑草の世話もしなくて良いし、老後のためにコンクリートも敷いたのよ。」
手作りの温かさが心地よい庭だ。秩序がないように見えて、それぞれの植物にストーリーがあった。まさに秘密の庭だ。東京から戻って、ここに庭を作ろうと思って以来コツコツと作り上げてきたんだとか。子どもの頃の自然で遊びまわった記憶が庭に残っているようだった。
掘れば掘るほど出てくる松下さんの世界。またいろんな話を聞かせてください。