竹本 圭吾 (たけもと けいご)
基本情報
・昭和57年生まれ
・大阪府出身
・四万十市西土佐大宮在住
大人塾と今
竹本さんは大人塾の一期生。昨年から職場の中村高校西土佐分校で川エビ漁を教え始めた。今年は、昨年川エビ漁を覚えた2年生が1年生に教える授業になった。生徒たちは指示しなくても軽トラに乗っているエビ筒を手際よく川にかけにいく。どの場所にかけるかそれぞれ考えがあるようで、完全に自分のものにしている姿が見られた。
「若い時にその経験をしとかないと。大人になって、戻ってくるきっかけになるんじゃないかなと思って。川があるんだ。食うのに困ったら川に入りゃいいんだぐらい。ここから網でちょっと本気出されたらもうすごい。」
竹本さんの軽トラにはエビ筒と網のセットが常備されている。仕事へ行く、5時に終わって、そのままエビ筒を仕掛ける。1時間くらいして日が沈みかけると、そこから網を投げる。そんなルーティンワークが出来上がっている。
「川の師匠とは(漁に)一緒に行く期間がそこまでなくて、行きたい気持ちもあったけど、実際に漁をするまでに至ってなかった。だから、大人塾は後押ししてくれた。そもそも小さい時の自然体験がなくて、本当に分からない。山の師匠(後述)は異常なぐらい世話を焼いてくれて、そのおかげでできたんだけど、川はやっぱそうはならなかった。ちょっとでも成功体験があったら、続くんだけど。その点、エビ筒は戦略もあまりいらなくてラッキーパンチも全然ある。その成功体験から考え出したら楽しい。」
インドア少年がお遍路へ
竹本さんは大阪の街中で育った。学校で生活改善を指導されるくらいぽっちゃりで、家の中でゲームばっかりしていた。 実家の前にも川が流れていたが、日本一汚いと言われた川なので、何かをしようと思ったことはなかった。学校で「運動部に入れ」といわれ、仕方なくラグビーと柔道部に入ってから、やっと今の体型に近づいた。釣り鉤を持ったのは、川の師匠(後述)に川へ連れて行ってもらった時が初めてだった。
超文系の大学に進学し、卒業後はサラリーマンになる流れに乗った。その後は、苦しい日々。新卒で入社した会社では、仕事についていけず退職、フリーターと何度かのサラリーマンを経験するが、仕事がうまくできず、体の不調もあって退職することに。その時、都会というシステムには生きられないと思ったそうだ。
会社を辞め、いよいよどうしようもなく行き詰ったのが30歳手前。何もすることがなく、寺社仏閣めぐりは好きだったから、とりあえずお遍路に出ようと思いたったのだった。それがたまたまうるう年で(うるう年に逆から回ったらご利益3倍らしい)、ご利益3倍なら行くしかないと思って、真冬の逆うちお遍路スタート。寺社仏閣はたいていコンパクトな街に固まっているので、そのイメージで挑んだが甘かった。このお遍路は思っているよりずっと過酷なものだった。サカウチの恐ろしさを舐めてはいけなかった。看板も案内も正規ルート用に作られている。今ここは「危険だから渡っちゃ駄目です」のような案内は逆側には立っていない。一度徳島でとんでもない道に行ってしまったこともある。
「いきなり88番目から始まるんだけど、行くだけでも大変だし、猿出てくるし、何じゃこれって。冬の久万高原はほんまやばかった。あの時35キロぐらいの荷物を背負って歩いていて、暗くなって雪も降ってきた。やばいぞと思っても、年末でどこも開いてない。やっと道端で看板出ているところを見つけてなんとか泊めてもらった。あの時あそこのコンビネーションがうまくいかなかったら、雪が積もる久万高原の外で寝ていたかもしれない・・・。」
そんな厳しいお遍路をしながら、頭の中では「これから何をしていこう」と考えていた。もうサラリーマンのような人と交わる仕事はできないから、静かに木を切る仕事がいいんじゃないかなと考えたという。四国を回りながら、愛媛と高知が良いなと漠然と思った。様々な危険を乗り越え、自分と対話し、お遍路は無事終了。ご利益3倍はいかに。
ご利益3倍 とんとん拍子で高知へようこそ
お遍路中に林業をめっちゃしたい人に変身して、大阪へ帰った直後だった。タイミングを計ったように高知の林業フェアがあって、即参加。そこで、某自治体A町が2012年に林業の協力隊を募集していることを知る。A町の職員とも仲良くなり、良いぞ!と思っていた。さらに、その次の日くらいに協力隊の説明会があると知り、これにも出かけた。当然、A町に話を聞きに行き、A町で林業をするイメージがまとまり、ここで決まりだと思っていた。ところが、会場を出ようとした時のこと、四万十市の青年団につかまった。四万十市なんてまったく知らないにグイグイと引っ張って行かれ、座って話を聞くことになった。元気ハツラツな協力隊の女性が楽しく話してくれて、職員も一緒になって林業もできるよ!という。A町だけ受けるのも、もったいない。どうせ面接のために高知へ行かないといけないなら、とりあえず受けてみようかと、A町と四万十市の2カ所の協力隊に応募することにした。 実際に面接を受けると、A町は圧迫面接、四万十市は即日内定。いろいろ考えた結果、実家が大好きな竹本さんは、実家に近いと甘えて帰るかもしれない、四万十市ほど遠ければ大丈夫だろうと四万十市に決めてしまった。(A町の方とはその後も良い関係を続けている。ご安心いただきたい。)
とんとん拍子に話が進み、ここで初めて大阪から脱出した。「こっちに来て、今までの鬱屈していたものがバーンっと爆発したようだった。だいぶ救われたよね。もうこれでいいんだって、こんな世界があるんだって。」お遍路のご利益3倍はまだ続く。出会いがあって2年も経たずに結婚した。愛媛か高知に住めたらいいなって思って、今は高知と愛媛の境界線に住んでいる。気づけば「あれ、思ったことが全部かなっている。」と竹本さん。
協力隊になってから
初めての一人旅がお遍路。大都会大阪からいきなり四万十市西土佐へ、が大冒険だったことは間違いない。竹本さんは大宮地区の担当になった。当時、西土佐の協力隊に山や植物に詳しい方がいて、竹本さんも山に関心があったから、補助金をもらって山の環境整備をすることになった。
「大宮のじいちゃんたちをまとめて、山の補助金とってみんなで環境整備した。協力隊の3年間で無理やり2団体くらい作って。本当は、森林組合まで持ってきたかったけど、そこまで皆のモチベーションがついてこなかった。 当時の協力隊って、大志を抱いた人々が集まっていた雰囲気。先進地へ研修に行って話を聞いて、デカくやればいいのかなと勘違いしていた。」
竹本さんの協力隊の3年間は、森林整備を中心に活動した。毎日自分の限界に挑むような努力を続け、地元の人との関係も大切にした。森林の補助事業期間が4年だったため、協力隊の卒業後、残りの1年でしまいをつけようとしたが、最後の最後は首が回らず苦しんだ。協力隊の研修では、華々しい協力隊の話が取り上げられ、なにか業を起こさないといけないと思わされる。かといって、起業にこだわっていたら、もっと苦しくなることもあるだろう。考えた末、今の職場で働くことになった。
原動力は、もう大阪に帰りたくない、都会の生活に戻りたくないという想いだった。もう一つ大きかったのが、山の師匠に出会えたこと。木曜日と土日の空いている時は、いつも2人で山にでかける。川の師匠が紹介してくれたことがきっかけだった。当時、川の師匠は、竹本さんの家の下に住んでいて、ふいにやってくると飲みながらなんじゃかんじゃ言って帰っていく人だった。時々、川の漁に連れて行ってくれるので、川の師匠と呼んでいた。協力隊の時に、コミュニケーションシートを地域の人に配り、そこに「狩猟に興味があります」と書いていたら、川の師匠が紹介してやると紹介してくれたのが山の師匠だった。
「山の師匠とは、今一番長く一緒にいる。山の師匠から狩猟全般を学んだ。ここの暮らしに関することも大体教わった。地域の先輩がいるっていうのは強い。地元の人で気の合う人が見つからないと、定着はとても難しいと思う。協力隊になったからには、とにかく、言われたことには出よう、何でもした方がいいのかと思って全て受け入れるようにしていた。人間関係とか、そういうことでは残ったものあるんじゃないかなと思う。」
狩猟採集生活をしたい
竹本さんのメインテーマは自給、狩猟採集生活。売って業にしたいわけではなく、お腹いっぱいになりたいから必要なだけ獲って食べる。狩猟採集生活に至ったのは、師匠について川に行ったことがキッカケだった。目の前の川で鰻や鮎をとる姿を見た。日本料理屋で働いたこともあって、四季の内、鮎の価値は知っていた。鮎の中でも一番のブランド品が目の前で泳いでいて、それを獲って、食べられる。大阪だと琵琶湖産の養殖鮎はいるけど、天然鮎なんて食べられない。「漫画『美味しんぼ』で四万十川の鮎の天ぷらを食って泣くシーンを思い出し、それが獲れるのか!」と。この環境を活かさない手はないと考えた。
山の師匠に獲った鹿を捌いてもらって食べたときのこと。今は師匠と2人で精肉技術を学んで上達したが、当時は血生臭かった。この臭さも料理法で改良できるだろうと思い、その年の鹿料理コンテストに応募し、沖縄料理屋の発想から鹿肉のタコライスを作り、なんと優秀賞!。料理経験があるからこそ、素材を活かして食べるという考えに至ることができた。それが今の生活の元になっている。
人として大事なことを学んだ瞬間があった。鹿を殺して運んで肉にする一連の流れをはじめて経験させてもらった時のことだ。とめ刺しをした瞬間、これは大事だなと思った。自分の中で漠然とだが、人として大事なことをしていると思った。それから狩猟を続けている。
竹本さんは網投げを仕事終わりのルーティンにしている。獲った鮎は、その日の晩御飯。
「とにかく行って投げることが大事だと思っている。三投でもいいから投げて、10尾以上は取らないようにして。やりだしたら際限ないじゃない。晩御飯に間に合うように帰ってくる。これをとにかく繰り返している。100尾くらい取ったんじゃないかな。常にウェーダーと網と川足袋を車に用意して、川をのぞいて鮎がいたら投げる。自分の理想は、5時に起きて山の見回り行って、川行って、職場行って、職場から川に行く。今の仕事は定時に帰ることができて、週4日勤務。罠をなおす日や大いに川や山に行ける日ができるっていい。私はね、この生活を重視した。山の師匠と一緒に生活できるのはありがたい。 」
都会で働いた経験、初めてばかりの四万十での暮らし。竹本さんは、様々な価値観を得て今の生活を選んだ。狩猟採集生活と聞くと山籠もりの仙人を思い浮かべてしまうが、四万十では案外身近でできてしまう。竹本さんは、便利なものもバランスよく取り入れながら自然の旨味を存分に得て上手に生活している。
その生活で感じていることを話してくれた。面白いので一気にどうぞ。
「鮎はさ、人間の材料って気がしない?日本人の材料って気がする。日本人の成分表があれば鮎がかなり入っているんじゃないか。鹿と鮎はそんな気がする。縄文の頃から食べているから。美味しいだけじゃないと思う。俺ら多分これでできていたんだなっていうぐらいのめっちゃくちゃ求めている感じの味の時がある。ジャンクフードとは違う『あ~よしよし!』みたいな味で、体になっていく感覚。肉も買わなくなって5~6年たってしまった。食費が浮きそうだけど、殺生のテクニックを踏むこと、時間も費やして5,6年でやっとできるようになった。自分の体を作るものを自分たちで獲得できている楽しさ。同じ上腕二頭筋でも俺のは鹿でできているぜみたいな。そこら辺の楽しみというか、大事なことだなと思っている。ただ、パートナーの理解がないと厳しいから、オールオッケーしてくれている妻にすごく助かっている。海の魚も中村の人から肉と交換でもらっている。海魚も宇和島と中村で、本気出せは手に入る。そう考えたら、ここって全ての食べ物が手に入る理想の地に近い。都会だと安心感とかってお金がいっぱいあるとか、稼ぎが多いとかになるけど。食い物があったら、別にそこいらないじゃないですか。安心感は冷凍庫に肉だらけ。冷凍庫ももう一台買った。狩猟採集生活では冷凍庫が1番大事。夏の7月8月は肉がなくなるから課題だった。そこを教えていただいたエビで確保している。この辺りに住んでいると、タコイカだけが食べられないからエギングを覚えようと思っている。大洲で会った人が1日だけで1年分のイカをとっていくの。知っているからできるんだと思う。そういう知恵が、行かないと身につかないよね。川もそうじゃない。獲りに行くものって、今行った方がよさそうだなみたいなの、絶対あるじゃないですか。山もそうで、10月3月はイノシシ狙いたいなとか。エビは8月の1ヶ月で勝負決める。食べたいものだけ取ったら深追いせずにやめる。獲れない時に行ってもしんどいだけ。それを見極めるまでがなかなか大変だけど、行かないと分からないし覚えられない。自分の日常に組み込むこと、今だ!って思えるかどうかを獲得していかないと。それを高校生のような若い子たちが、雰囲気だけでも掴んでくれたらいい。自分らの住んでいる生まれた土地って良い土地なんだよっていうのが、分かってもらえると思うんだけどね。 」
妄想が膨らむ今後のワクワク
満喫した生活を送っている竹本さんだが、今の職場を通して、子どもたちに教えたいことやこうなったら良いなという妄想も膨らむようだ。
「10代の子たちが川に親しむのはエビとしゃくりで決まりな気がする。網を本当はやってほしいけど高いから。お父ちゃんとお母ちゃんが息子に誕生プレゼントに網を買ってあげるぐらいの習慣が欲しいけど。 中学校高校の体験でしゃくりを義務化してもらおう。林間学校みたいな感じにして、黒尊川で黒尊川しゃくり教室みたいな。反射神経とか筋力とかの関係上、10代、20代前半が強い。そこから他に手段ってないかなって次を始める。入り口としてしゃくりはすごく良い。川を見ているだけで楽しい。とにかく地域に人が残り、川に親しんだらいいなと思っているから。地元の子らがやるのが一番で、次はしゃくりもできたら良いなとふんわり思う。やろうと思えば、楽しいことは面白いことはいっぱい。」
聞いているとこちらまで妄想が膨らんでしまう。竹本さんから最後に一言、
「今から川行こうかな。 」