豊田庄二さんは、四万十川源流域のことならなんでも知っている。源流域で困ったら、「豊田さん」の名前が浮かんでしまうほど。今回は、そんな豊田庄二さんを紹介します。
豊田庄二 (とよだしょうじ)
基本情報
・1952年生まれ
・津野町芳生野出身
仕事が遊びの子ども時代!
豊田さんは子どもの時から山や川を走り回っていた。小さいころから、お父さんの山仕事について行って、近くの谷でモツゴをつっていた。
豊田家は庄屋だったから、地域の人が家に集まって楮(こうぞ)の皮はぎを夜遅くまでしていた。楮を煮るために焚く火の番が豊田さんの仕事だった。お駄賃は焼き芋。
よく働く子どもだった豊田さんは、昭和後半の農林業はすべてやったという。草刈りから草取り、草室(くさむろ)もつくった。枝打ちも中学生で覚え、木を登りながら枝を打ち、上まで行ったら隣の木に移って下に降りながら枝を打つ。間伐も炭焼きも。田んぼで牛を使っていたので、牛の扱いはお手の物。仕事をしながら遊んでいたという。
お父さんとお祖父さんが川の師匠!
豊田さんのお父さんはアメゴ釣り、お祖父さんはタチイダを網で獲っていた。イダが獲れたら串にさして囲炉裏で焼き上げ、ワラスボに刺しておいた。それを出汁にして、煮込み料理や様々な料理に使っていた。
お父さんから、アメゴ釣りと鰻漁を丸々引き継いだ。鰻ウエ(竹で編んだ漁具を仕掛ける漁)をする時、お父さんは膝より深い所には入らなかったが、豊田さんは腰まで浸かってつける。鰻を獲りに行く時は、畑で飼っているミミズを箱に入れ、10~15本のウエと一緒にバイクに乗せて行った。今では考えられないほど鰻が獲れた。筒の中に鰻が詰まって、水さえ出てこないこともあった。筒の口から鰻の尾が見えているのに、引っ掛かって出てこない。帰ってから太いバケツにトントンおとすと、ドバドバ出てきて、少ないと「二つしかおらんぞ!」と言ったもんだった。筒は、鰻の粘液でねちゃねちゃの泡になっていた。
お父さんは小さいのをアメゴ、大きいのをアメとかアメノウオと呼び分けていたそうだ。アメが釣れたら別にして、さつま汁にした。よく、「アメ釣りに行くぞ!」と言いながら、合羽と長靴をきていたそうだ。
子どもの頃から川をまわり、この辺りの川の名前は全部知っていた。お母さんの里の大古味には商店があって、そこが重要な情報基地になっていた。誰がどこで漁をしていたか。今日はどこに誰がつけるぞと聞いたら、そこを避ける。店では「いかん、先越された!」「だれじゃわからん!」「あ~あいつか~」と言う話が飛び交った。豊田さんは子どもの頃からそのやり取りを聞き、仲間になっていた。鰻、アメゴ、それぞれにプロがいて、お互いの腕を良く知り、情報交換もしきりにしていたものだった。タチイダを獲る網投げの時は、各々が石を組んでより場(=産卵場所)をつくった。そのより場に魚が来ないときは、他の人のより場で「すまんがにゃ、一網分けてくれ、今度晩酌でもやろうけ。」といって網を打たせてもらった。
網はお祖父さんに教えてもらった。小学校高学年には、家の8畳間で練習させられた。畳の3畳を囲うように投げないといかんぞと習い、とことん教え込まれた。
作曲「初恋の歌」
豊田さんは歌が大好き。高校卒業後しばらくは実家の農業を手伝っていた、その頃のこと、トラクターに乗って歌っていたら、近所のおばちゃん連中に「トラクターの音よりお前の歌がやかましい」と言われた。歌好きが高じて、学生の時に歌を作ったそうだ。中学生の時、3キロを歌いながら通学した。その時に作った歌が『初恋のうた』。校庭にいる豊田さんをいつもこっそり見ていた実在の女の子を歌った歌で「いつも君は僕を見ていた~♬」という歌詞。その子とは、卒業後も文通をしたらしい。「あれが初恋だったな~」と語ってくれた。『一人旅』という歌も自転車に乗っているときに作って、ハーモニカで吹いていたが、メロディーを忘れてしまった。あの当時似たような歌がなかったから、「俺はすごい」と思っていたという。
役場職員として39年間
家の仕事をしながら、朝夕は釣りに行って、時間があれば焚き物(薪などのこと)をとりに行き、と忙しくしていたが、役場に入ることになった。役場で、多くの仕事を経験し、58歳までの39年間を働きぬいた。20代~30代の頃は、水道が凍結したら呼ばれて、雪の降る中、パンツ一丁で取水池に入り直したこともあった。農業共済事業の事務所立ち上げに関わり、窪川に出向して全農家を回ったこともあった。プライベートでは、牛の削蹄師の国家資格をとり、県の削蹄師会の会長を12年やった。B&G海洋センターで水泳指導をしたこともあった。水上安全救急法を習って子どもたちに教えた。どうしても泳げない女の子を指導したら、背泳ぎや飛び込みができるようになって喜んでくれたことをよく覚えている。
一番面白かったのは農業振興でハウスの事業を担当したこと。農家を回ってハウスの営業をし、ハウスを導入した農家の収入がみるみる上がっていった。
豊田さんが、津野町をいろいろな視点から教えてくれるのは、役場での奮闘があってのことだとわかる。
豊田さんは現在、津野山魚族保護会の津野地区の会長を務める。子どもの頃、月夜におじいさんと鮎を手づかみしたのはいい思い出だ。仕事で鮎に関わったのは産業課に配属されてから。平成14年に大量死したときの担当で、水泳指導のメンバーをかき集め、潜ってで鮎を回収した。1淵に300~400尾の鮎が沈んでいて、深いところは6m潜って回収した。
朝8時に出勤なら4時から川に行けばいい
「『川漁師は遊び人だ』と親父が言っていた。土日関係なく朝に川に行って仕事していたから。みんなに遊びゆうって言われていた。『仕事を休みやせんぞ~』と返していた。魚の漁をすること、道具を作って使うこと、料理をすること。鰻の裁きは中学1~2年からやっていた。自分でとった鰻を旅館や運送会社に売りに行っていた。」と豊田さん。
仕事は8時に行けば良いから、朝4時に起きて7時まで川にいることができる。夜はソフトボールや水泳で忙しいから、朝の自分の時間を楽しんだのだった。そうするうちに、豊田さんは40歳を過ぎたころ、「漁を引退するから全部お前がやれ」とお父さんに言われる。
「親父からは、釣り竿、仕掛け、鉤の良しあし、ポイント、いつ何が獲れるか、全部教えてもらった。」
川を見て、空を見て、花を見て、実を見たら、何が獲れるかわかる。フキノトウがたつと魚が釣れる、イタドリの花が咲く、ヤナギの花が咲くと鰻が獲れる。自然の感覚が体に染みている。ここでこれくらいの雨が降ったら、下流のはどれくらい水が出るかが分かる。アメゴは笹濁りが釣れるというけど、出水量によっては、入れないところがある。水の量をみて、川に降りられる場所を見極めて釣りに行く。
「親父が師匠だった。親父の知り合いもそれぞれ師匠。みんな、川のことが頭に入っている。川だけじゃない。山菜もすべてどこで何がとれるか知っていた。仕事で山に行くと、もう少し行ったらぜんまいがあるぞ、あの谷にはウドがあるとつい思ってしまう。仕事も遊びも自然の中を見ながら。」
一期百会 やりたいことはまだまだ
豊田さんは「僕から川と魚を抜いたら早くに死んどるな~」という。ただ、やりたいことはまだまだたくさん。今は、四万十川の源流をガイドしながら歩き、旅行者をみたら声をかけて案内をする。外国人のガイドもする。英語はあまりできないけど、怖じない。アメリカ人が天狗高原に自転車できていて、神楽の時だったから誘ったら来てくれて、とても喜んでくれたこともあった。おしゃべり上手な豊田さんは、テレビや雑誌の取材も度々受ける。
「一期一会、one chance is all chance」
「『一度会う』のは、いろんな形で会う一回目で、それがそのうちに面や円になる。一度目はその円の始まり。一期百会だと思う。」という。この言葉、いかにも豊田さんらしい。
来てくれた人になんでもいい、関心というか、良かったと思う何かを残したい。どうしたらもう一回来てくれるか考える。自分が近づくか相手が近づいてくれるか。近づきたいと思う何かがあるかどうか。家の隣が吉村寅太郎さんの生家。寅太郎のように世の中を動かすのはできんけど、人の心を動かすことはできる。と豊田さんは思っている。気持ちよく自分を受け入れてもらえるように話す。そしたら、また来てくれて、その人が周りの友達に紹介してくれたりして広がっていく。一期百会だよと笑って話してくれた。