永野 一夫 (ながの かずお)
基本情報
・1955年 生まれ
・四万十市 西土佐半家出身
網投げをしながら川談義
永野さんの話を聞いたのは10月4日朝。鮎禁漁まで2週間を切り、鮎をとりたくてたまらない時期でした。取材前日の夜、「朝から川にいる、鮎がとりたい・・・」と連絡をもらい、せっかくなので河原で網投げをしながらお話を聞くことにしました。永野さんと同じく川が気になってしょうがない人たちが仕事の合間に川へおりてきます。川談義しつつ、鮎が跳ねたら網投げをして、永野さんの日常に触れた取材になりました。その雰囲気を合わせてどうぞ。
永野さんにQ&A そして網投げ
Q 子どもの頃、どんな遊びをしてましたか?
「高校卒業までは、長走という十和と西土佐の境目の実家に住んでいた。
近所には男先輩が2人しかいなくて、ほとんど一人で遊んでいた。小学6年生頃から初めて先輩に鮎シャクリを教えてもらった。夏は、本流で流れながら鮎しゃくりした。その時はたくさん鮎がおったけん!」
元同僚のKさんがやってきた。
川談義スタート。
「この前も40尾おったもん。」「火振りの後かね?」「まえよ。」「何ちゃじゃない時に真っ黒になって降りて来る。もっと下ってこんといけんのに。水が温いわ。」「ひと月ばあ遅いぞ。上ばっかとりよらえ。」「広瀬、ゆうべやっちょるけ。どうじゃったろ。」「この前、大橋から見たら200ばあの群れがおりよった。」「ありゃコイぞ。」「コイが立ち上がった。今朝も跳ねた。キレイなコイじゃった。」「風が吹いたら跳ねが少なくてわかりにくい。」
少し川に入ろうとする永野さんだが、アユが跳ねなくなったので戻ってきた。
Q ほかに川で遊んだことは何かありますか?
「学生の頃は水が濁ったら鰻釣り。リールはよう買わんかったから、鯖缶に糸まいちょって使った。
シュロの木わかる?それにサバの頭をくるんで川舟の上から垂らしてガネ(モクズガニ)釣り。ガネがかかったら竿が振動するからわかる。舟は7~8人乗れるくらい大きな共同の渡船があった。近くに橋がなかったので渡舟で川を渡り、バスを利用していた。川を渡るのは個人の舟を使うことが多かったけど、持ってない人や渡る人が多い時は渡舟を使っていた。竿か櫓を漕ぐのだけど、増水すると流れが強くて流されるから、だいぶ上流から渡り始めていた。」
目の前でポチャっと音がした。
「跳ねたっ。」「あっこはいけるにゃ。さっき5匹とったとこよ。」「遠いね。行きよったら逃げるろう?」「さっき腹まであった(水が深かった)。」「腹ぐらいやったらまだかまん、首までないと。」「どうやって投げるのよ~」「腰じゃったら投げれんことはない」「沈むの遅いからいかんにゃ」「あ、跳ねた、あれはコイか。」「今年できたあの砂山。あれが良くない。」
網を投げてるが、とれなくて戻ってきた。
Q 他にも川のことで覚えていることはありますか?
「中学校に入ってから『にごりくみ』もした。とにかく沈下橋がつかって大洪水になったら、薮を5~10mみんなで刈っておく。7mくらいの長いスイデ(タモ網)で鮎をすくう。柄が6~7m。枠が直径1mはある。上から下に向けて引っ張る。40~50尾はとれる。多い時は1回に200尾とれる。ようあげれんから、タモを持つ人と柄を持つ人の2人がかり。親戚のいとこ達とよくやった。今でも水が良かったらやる。最近は水が出ない。ダムの放流もよく聞いて放流量2000t以上になって、水位も7m以上にならんとできない。」
鮎が見えた。
「おるおる」「そうとうたまっとる」
永野さんは川に入っていった。
Kさん「沖に出たねどうも。また永野は違う彼女(取材中のスタッフ丸石のこと)を連れて来ちょろうかね思って見ちょった。いろんなが連れてくるけん」
永野さんが戻ってきた。
Q高校を卒業してからは?
「昭和62年4月にUターンするまで、18歳から15年間、岐阜の白川村にいた。最初は山師。植林をしていた。夏は下草刈り。季節労務者だった。上下関係が嫌で普通の会社に就職するのが嫌だった。」
「良いところだった、良い人たち。18歳で遠く離れたところで一人暮らしを始めて、心細く寂しかったけれど、民宿の人や上司が家族ぐるみで良くしてくれた。白川村の男手は冬に名古屋へ出稼ぎに行くから、雪下ろしの仕事がたくさんあった。夜中にも屋根の雪下ろしすると、晩飯や昼飯をご馳走してくれた。5ヶ月は雪の中。冬が長いのがたまらんかった。その後も長距離トラックに乗ったり、ガソリンスタンドで働いたり。家族のことがあって西土佐に帰ってきた。帰って来てからも白川の人たちとやりとりは続いた。」
Q 永野さんと言えば網投げですが、帰ってきてから覚えたんですか?
「網投げを始めたのは、川のはた(そば)におるけんね。他にないので続けてきて、本物になってきていると思う。最初は父が網を持っていたので、投げてみていた。下手だから夜に行ってとっていた。中村へダンプの仕事に行きだして、同業者の岡村さんという先輩に教えてもらった。岡村さんにお願いして長走まで来てもらって、袋網の片手投げを1日くらい見て覚えた。ダンプの仕事で帰ってきてから1時間くらい何日も投げてやっと覚えた。長走は急流で淵がなく刺網は投げたことなくて、江川崎に来て覚えた。」
「江川崎には平成21年くらいに住み始め、バス会社に入った。この場所は刺し網が良い。とばせるし。会社には網を作る人が3人いて、網作りを教えてもらった。親身になって教えてくれたのは1人。自分に網作りが向いているのか大変助かっている。」
Q そうそう!永野さんは西土佐の網作り師で知られていますね。
「今はかなりお客がおる。高知市内から宇和島まで。四万十町にも増えてきた。部品が高くなって、稼げるようで稼げていない。投げ網は、投げた時にうまく開くように作る。投げる力加減を考えたり、女性なら錘を軽くしたりと、その人に合わせた網を作りたいと思っている。僕が網投げをしていて善し悪しがわかるので、網を頼みに来る人もいる。今は投刺網、袋網、たて網の3つをつくる。時間があれば鎖型の錘も手作りしている。」
「昔から夜も(漁に)行っていた。水が濁っとるときに投げる方法も身につけた。今は歳とってあんまり行かなくなった、育ったところは川の状態がわかるから危なくない。濁り水に投げる網も開発した。2号(糸の太さが)の網で破れにくい。僕が初めてだと思う。」
「今までは網投げに行きたくても、予約を受けててできなかった。今の時期は、やっとできるようになった。仕事しているから土日は朝から夕方まで。水の状態で行く。水が濁り、沈下橋が浸からんときも投げに行く。夜は川をわからんと恐いから、行くところが決まっている。長年やっているから、鮎がおりそうなところがわかる。全然知らないところは、どこに鮎がおるかわからんから、無駄な投げになるので行かない。」
Q 網投げ以外はやらないのですか?
「火振りは嫌いでしない。ワンマンでできないし、仲間でやらないといけないし、自由じゃない。獲れた鮎は網目がついて、ぬめりもなくなって良くない。しかも、夜にみえないものを獲るのは面白くない。網投げて獲れるようになったら鮎との格闘が楽しくなった。どこに投げたら捕れるか、どっちに逃げるのかが大体わかってくる。網慣れしたら鮎はバックするとかね。駆け引きが面白くなってきたのは網作りだしてから。右手1本で年に200~300キロとったことある。毎年、100キロはノルマ。ずっと尾数を記録している。獲れた鮎は人にあげたり、売ったり。夜だったら濁ったときに3時間で200尾とったのは、しんどかった。歳をとって、行く時に考えるようになった。外すのが大変で、外しやすいように持ってくれる人がおったらいいのに。とれ方によってずっとやったりすぐやめたり。」
Q 永野さんは下流と上流の漁師とも仲が良いですよね。
「網作りから友達が増えた。十和や中村方面にも行っている。川登の人とは12月1日の落ち鮎からお世話になっている。先輩にお世話になって10数年前から仲間に入れさせてもらった。4年前くらいには川登で初めて寒鯉漁をやらせてもらった。あの時の鯉はうまかった~。」
Q どうやったら網投げが上手くなりますか?
「網投げを上手くなる方法は、とにかく投げることのみ。鮎より先に見つけて(アユに見つかる前に)投げないといけない。こちらからあまり近づかず、鮎が近づいてくるのを待つ方が良いのだけれど、悟られてなかなか寄って来てくれない。覚えたての頃は、仕事から帰ると練習していた。川の向い側にエビを獲りに来る人がいたけど、僕が網投げ練習すると波が立ってエビが見えないので諦めて帰った人もいた。そんな風に、昔は川にたくさんの人が川に来とった。」
永野さんには、当財団の網投げ企画の講師を何度も頼んでいる。永野さんに作ってもらった網もたくさんある。少しの間河原に一緒にいただけで、永野さんの人柄や川への愛情、網投げが大好きだということが伝わってきた。「これからも体が続く限りやりたい。」という。いつまでも永野さんには網投げを続けてほしい。これからもよろしくお願いします。