影浦 賢 ( かげうら けん )

基本情報

・梼原町西町

・1941年生まれ

川で遊びつくす子ども時代

影浦さんは梼原町で生まれ育った。お父さんは愛媛出身だが、鍛冶仕事が好きで、梼原で鍛冶屋を営むおじさんの養子になり、技術を身につけた。 影浦さんはお父さんの出征中に生まれたので、5歳までお父さんを知らなかったそうだ。お父さんが帰還したとき、お母さんに「知らないおんちゃんが来たよ。」と言って叱られたというエピソードも聞かせてくれた。 お父さんは、主に鍬をつくる鍛冶屋だった。 夜遅くまで弟子と仕事をする姿を見て、子供の頃は大変な仕事だ感じていた。影浦さん自身は鍛冶に興味もなく、幼少期は川を遊びつくしていた。小学生の頃は、自作の仕掛けや道具で鰻やほかの魚を捕まえ、特に潜って鰻を取るのが大好きだった。鰻のいる穴にハヤゴやイダを持って行くと鰻が出てくるので、そこを狙っていた。

昔の学校はお昼を食べに家に帰ったが、ご飯を食べながら取り逃がしたアメゴのことを思い出して、川に行ってしまったこともある。学校置いたままだった鞄は、友達が忘れてたよと持って来てくれた。そんなことが1度や2度ではない。それほどに川で遊ぶことが好きな子供だった。

「ゴムシ(トビケラ)で釣りをするとき、虫入れを忘れて、胸ポケットにゴムシを入れちゃあ遊びよった。そしたら、黒い染みができて母にずかれよった(怒られた)。」と笑う。確かに、そんな染みは嫌だ。

川道具がたくさん

鍛冶屋28代目 天性の腕前

影浦家は代々鍛冶屋で、影浦さんで28代目。影浦さん自身はあまり興味がなかったが、お母さんから継いでほしいと頼まれて、「母が言うのなら」と中学を卒業して4日目には須崎にある刃物鍛冶屋の内弟子になった。最初は子守りや風呂の準備、コークスの塊を割るなど雑用ばかりだった。何かを教えてもらった記憶はなく、師匠の技を見て覚えるだけ。師匠が打つところを見て、途中まで作られた鋤鉈(えがま)を見様見真似で作ってみたら、師匠が「賢、打つじゃないか」と一言。影浦さんは、これで良いのかと思った。やってみると案外簡単にできたので、「なんだ、鉄は焼くと柔らかくしよい(簡単な)もん」と思ったという。

影浦さんは、天性だろうか、とても腕が良かった。ふつう竹割包丁は1日に50丁打てれば上等だが、影浦さんは最初から70~80丁打った。暗い場所で入れた7つ目(斧に入れる7つの切り込み)も、近所の鍛冶屋が驚くほどの出来だったという。3年目には戦力となり、修業5年、御礼奉公1年の計6年働いた。影浦さんが去るころ、近所の人は「賢ちゃんがいなくなるとつぶれる」と言っていたと後からきいた。師匠は「賢はよう仕事をしてくれた、真面目ではなかったけど、左甚五郎(伝説の彫刻師)のようだった」と、影浦さんを迎えに来たお母さんに話したという。惜しまれながら梼原に帰り、家業を継いで以来60数年になる。

7つ目 裏には3つの切り込み
作業場 仕事中を撮れず残念!
様々なもの・・・

父は鍬 おらは刃物 家宝のお盆

影浦工房は電気ハンマー2台を置いて、影浦さんが刃物、お父さんが鍬をつくるようになった。お父さんの鍬は、土地や人それぞれに合わせて作られていて、かの民俗学者 宮本常一も絶賛しているほどだ。だが、影浦さんは、「『鍬はやらんのか』と聞かれるけど、鍬は土に叩き込むもんじゃけ、鍬はしよい(簡単)がじゃけ。焼き入れも刃物は全部違う、いろんな技術がいる。鍬はそんなことない。馬が蹴り飛ばしても焼きが入るがじゃと昔の人は言いよった。そんなんに興味はない。」と辛口だ。

道路拡張で工房をセットバックすることになった際、電気ハンマー2台を置くには広さが足りなかった。影浦さんには庭に池を造って鯉を泳がせるという夢があった。池を諦めれば2台何とか入るとなったが、御父さんと話し合って引退してもらうことになった。残された電気ハンマーは、能登半島の漆職人(人間国宝!)が欲しいというから、ただであげてしまった。あとから本とお盆(人間国宝のお盆!)が送られてきて、それは家宝になっている。

電動砥石 削った鉄と石が固まって鍾乳洞みたいに・・・
電動ハンマー

土佐の匠&ダマスカスナイフの名匠

平成14年に土佐の匠にも登録されている影浦さん。ダマスカスナイフが特に有名で、日本全国、世界からも買い手がある。きっかけは、ナイフマガジンでダマスカスナイフを見たことだった。これは自分にもできると思ってやってみた。1丁1丁全部違う、少しのひらめきで模様が変わることが面白い。どうすればきれいな模様が出るのかを研究して、一番きれいな模様が出る鋼材の組み合わせとたたき方でつくっている。美しいだけでなく、折れず、曲がらず、安価という点が魅力だ。

本来のダマスカス鋼は、溶解させた鋳鉄を坩堝の中でゆっくり凝固する際に、内部結晶作用により融点の違う鋼が別々に結晶化したことにより模様が発生した鍛鉄ですが、現代のダマスカス鋼は一般的に鋼と鍛鉄などの異種金属を鍛練し人工的に模様を生み出した材料の総称として知られています。この模様は特に炭素濃度や、鋼材の硬度の違いから発生するもので、模様の出し方にも様々な方法があります。

 https://tojiro.net/reading/6361/ ダマスカス鋼とは 藤次郎株式会社HP

影浦さんのダマスカスナイフは、知りあいの自動車整備工場や造船場から安く手に入れた鉄と安来鋼の「あおがみ」を合わせ、自由鍛造でつくられる。お父さんは戦争から戻って、「鉄を粗末にするな。」と言い続けていた。道端や河原に落ちている鉄でさえ、鍛冶屋がたたけば命を吹き返す。確かにそうだと思った。以来、お父さんの言葉を守り、ダマスカスナイフを打ち続ける。

ダマスカスナイフ
鍛造中 鉄と鋼を合わせているところ
車のスプリングなどの鋼
造船所からの鉄

一生貫く鍛冶屋バカ

鍛冶屋にはそれぞれ専門があるが、影浦さんは、なんでもつくる。炉の口に入らないものは、さてどう打とうかと難儀するが、頼まれたら作らずにはいられない。断らないのが鍛冶屋の性分。工房の中には、所狭しと様々な刃物が並ぶ。鍬、鎌、ナイフ、様々な包丁。柄や鞘もすべてこだわりの手作りだ。全国から注文が来るようで、マグロ解体用の巨大包丁もつくったことがある。あるお客さんは、影浦さんの剣鉈で仕留めたエゾシカをはく製にして持ってきてくれた。海外では日本ブームで包丁が飛ぶように売れるため、海外からの取材が来たことも。

工房に並ぶ商品
山道具
鞘をつけた商品 影浦さんは商品に合わせて鞘を手作りする
柄になる鹿の角
鞘になる牛の皮 1頭の半身
影浦さんの剣鉈でとどめを刺されたエゾシカのはく製

影浦さんは、自分が納得するものを作りたいという気持ちが強い。お金の管理は全て奥さんが担い、自分の刃物がいくらで売れているのか知らない。職人が金勘定を始めると品物が雑になるという。

「一生貫いたけね。作りたいから作りようがじゃけん。りぐった(凝った)ものを作りたいろ。自分でこりゃあようできたと、ほれぼれするものを作りたいじゃいか。儲けじゃなしに。ちゃちゃちゃっとやる方法はどうやるがや?おらには、そういう手抜いてやるっちゅう感覚がない。なんぼ安い品物でも、自分が納得いくようにしか、ようやらんがや。職人バカちゅうもんじゃろうね。」

「最後に、品物を本当に満足できるものを作って、全国で待ちゆう人に送っちゃろう。自分の納得した品物を作りたいとますます思っとる。美術的価値、使用にも耐えられる。キレイじゃないと面白くないじゃいか。どういう木が一番ナイフの柄に合うか。」

中学卒業から70年近く、鍛冶屋が嫌いとも、辞めようとも思ったことがない。できる範囲でやろうと思っている。「今、影浦さんのナイフを待っている人は何人くらいいますか?」と聞くと「なんぼかわからん。」という。

唯一残念なのは、影浦さんには弟子がいないことだ。何人も弟子入りを申し込んでくれたが、タイミングが合わずに今に至る。「本当にやりたい人がいれば。」と空を仰ぐ。「鍛冶屋で一番大事なのは集中と持続。やりだしたら面白いぞ。」70年の超一流がいうなら間違いなく面白い。

銘は「国寿(くにとし)」 本人が命名

四万十川はライフワーク

影浦さんの川愛は、ものすごい。四万十川がライフワークだという。津野山魚族保護会の設立当初から関わり、長年会長を務めてきた。現在は、会長職を引こうとしているが、源流域の魚を守りたいという想いは変わらない。

約30年前の津賀ダムの水利権更新の際には、津野山鮎がいた川に戻したいと、ダム撤去運動を先導した。コンパネで『ダム撤去』の看板を作って、大正地域に設置して回った。独身だったら、ダイナマイトを担いでダムを爆破するほどの覚悟があると県知事にも伝えた。

今でもアユやアメゴを釣る。取材時も、今年釣った大きな鮎を見せてくれた。釣りが大好きで、取材前日は朝早くから海へ出かけていたという。夢だった池には、川で釣った大きなコイを何匹も飼っている。影浦さんがゆっくり手を出し、コイのあご?や頭を撫でる。コイにも一流なのか。

鉄もコイも手なづけた影浦さん

超一流なのに飄々としている影浦さんの人となりがなんとも魅力的だ。この想いや技を引き継ぐことができたらと切に思う。