宮崎 聖(みやざき せい)
基本情報
・四万十市岩田出身
・四万十市佐田在住
・1978年生まれ
・キーワード:自伐林業、軽トラサウナ、釣り、野球、アウトドアガイド、
宮崎さんは、自伐林業を始めて10年、林業の講師を依頼されることもしばしば。最近は、自作のサウナを軽トラにのせ、大胆にも四万十川を水風呂にしたサウナ体験を提供している。そんな宮崎さんを紹介する。
釣りと野球
子どもの頃は、何と言っても釣りが大好きだった。お祖母さん宅前の後川で、毎日のようにハヤやイダを釣った。釣りをするために、通学時間前に川に行き、休み時間にはミミズを掘った。読書は釣りの本、テレビは早朝の釣り番組。夏休みの宿題で絵日記があれば、今日釣った魚の話を書き、工作があればルアーを作った。中学生の頃には、本気で釣りのプロになりたいと思い、先生に話したが理解してもらえなかった。「今は良いね~youtubeで見放題!youtuberも普通だし、10年早すぎた。いつも流行る前にやるからみんな驚いて『こいつなに言いよるろ』って思われる。」と宮崎さんは笑う。
野球も大好きだった。少年野球は、小学3年生まで待ちぼうけ。チームに入ってからは、ピッチャーに抜擢され、キャプテンにもなった。中学校には野球部がなく、しょうがなくソフトボールをした。幡多地域のソフトボールは全国制覇するチームがいるほど強かった。優勝を目指して頑張ったが、夢に届かず。さあ、憧れの高校野球だ。野球の名門校からスカウトされたが、甲子園で準優勝した中村高校への憧れが忘れられず、中村高校で甲子園を目指した。夢かなわず、親御さんから野球を続けろと言われるが、いまいち気持ちが上向かない。セレクションを受け、プロになった人たちにも会い、プロになれるという言葉までもらった。結局大学でも野球を続けたが、既に野球への気持ちが遠のいていた。
四万十で自由に
大学卒業後四万十に帰り、福祉施設の指導員として木材工場で働き始めた。ちょうど、「かわらっこ」がオープンした頃で、アルバイトでアウトドアガイドも始めた。体を動かすこと、自然が好きだったので、こんないいい仕事はないと思った。その延長で「川辺のコテージ」を開業し、四万十楽舎にもガイドとして出入りしていた。「若いからどうにでもなったし、何も考えず生きていた。みんな偉いと思う、今の若い子。」と宮崎さん。
グリーンツーリズムやエコツーリズムが流行った頃、四万十川を源流から河口まで下る「ドラゴンラン」という企画が打ち出された。発案者である四万十楽舎の山田さんの発想とパワフルさはものすごかった。ドラゴンランには、山田さんの仲間で、世界で活躍する冒険家のような人たちが集まってきた。スタッフとして参加した宮崎さんにとって、その人たちとの触れ合いが大きな刺激となり、何よりも面白く楽しかった。その時に山田さんから、「観光客をあてにせず、普段は自給自足をしながら、観光客が来たら相手にしてという生き方が良いよね。」という考え方を聞き、今まさにその通りになっている。
何かしなければ
当時の宮崎さんは30歳くらい、福祉施設の指導員を辞め、木材工場で働いていたが、不運にも工場が火事で倒産してしまい、「何かしなければいけない。このままじゃヤバイ。」と一念発起して考え始めた。
地域活性化=田舎で仕事を産むこと、自然やアウトドアガイドなどの外での仕事に興味があり、農業やツーリズムの仕事を探した。地域活性への興味は、高校生の頃にお父さんたちが始めた「四万十僻村塾」からだった。その塾には、東京大学の月尾嘉男教授が出入りし、何度か環境問題について講演をしていた。家に帰ると橋本大二郎元知事や研究者、官僚など様々な人が出入りし、地域や環境の課題について語りあっていた。多感な時期にそういう人たちの影響を受けた宮崎さんが、地域の課題や環境問題に興味を持ったのは自然な流れだろう。
いろいろな会に行って勉強していた時、ある会で、自伐協会長である中嶋さんから自伐林業のことを聞いた。「自伐林業は儲かるぞ」。実際に儲かっている人達の話も聞いた。その時、稼げる理屈はわからなかったが、やってみる価値はあると思った。高知県の制度で10人構えたら50万円の機材補助があることを調べ、任意団体「しまんともりもり団」を作った。
自伐林業
初めての作業は知人の山を間伐したが、全くうまくいかなかった。別の山で道の作り方を徳島の橋本光治先生に教えてもらった。道をつけるだけで、日当1万円、年間で200万円の補助金がでた。正直、本当に儲かると思った。儲かるから木を伐らず山に道ばかりつけていたが、ある時ふと、「これ、補助金無かったらできないよね。」と思った。
一方で、林業参入当初から、自伐林家の菊池さんが「補助金はあてにしない、数字もきっちり出して、日当12000円、経費も入れて36000円稼がないといけない。この木が5000円だから、7本倒さないといけないという計算でやっています。」と話すのを聞いていたが、そんなもん無理だと一顧だにしなかった。宮崎さんは当時を振り返り、「まだ全然わかっていなかった。」という。
2018年、菊池さんの造材研修を受けて、あの時ふと感じたことが当たっていたと分かった。造林研修の後、習った通りに、道もつけずにぼろい杉を出した。その時、手取りが12000円超え、見積もった数字と一緒だった。道もいらない、軽トラも走らずに林内作業車で行けるじゃんと気づいた。面白いとおもった。自伐林業への考え方が一切変わった瞬間だった。
林業は副、主は木工
最初から「林業は主ではできない、間でやろう。食えるわけないもん。」とは思っていた。木工の技術はあったので、木工で稼ぎながら、林業は空いたときにすれば良い。材積ベースの間伐率2割を守っている。菊池さんの教えで、補助金をとらなくてもできるようになった。(現在の宮崎さんの林業について詳しくはこちら「自伐林業」もしくはこちら「四万十川流域の森林の現状 ②自伐林業家 宮崎 聖」)
「今の自伐林業はあまりにも補助金をあてにしすぎている。補助金は、あった方が良いが、実際の状況を理解できていない。山主に、どれくらい返しているかが一言も出てこない。木が何本出せて、どのくらいの収入になるかわからないから、山主に還せない。」
世の中に通じるために
環境問題への興味から自伐林業に行きついた宮崎さんだったが、当たり前すぎて環境問題に固執することはなくなった。
「ボランティアは素晴らしいけれど、お金で示さなければ世の中に通じない。お金にならないから、林業は興味を持ってもらえない。だからこそ、数字を追い求め、筋を見せたい。数字が出せれば、誰でもわかってくれる。修学旅行生たちに、木の値段の出し方を教えると『これ切りやすいし、良い木ですよね!』って子どもでも伐るべき木をわかってくれた。環境を考えることもあるが、考えずとも、結果的に環境負荷が低くなっている。環境に良いという説明だけだと伝わらない、お金になるということを伝えないと。」
自伐林業の収入が時給1万円を超えて、これ以上収入をあげることは無理だと思った。伐る時に単価をあげられる場所を見極め、良い木を育てた方が良いと気づいた。宮崎さんは、今後、木を植え始めるつもりだ。
軽トラサウナと防災
最近の宮崎さんは、「軽トラサウナ」で一世風靡している。軽トラサウナとは、軽トラの上に、木工の技を駆使して自作したサウナを載せたもの。4人いれば簡単に持てるぐらいの重さなので手軽に四万十川でサウナが楽しめる。サウナで一番苦戦する燃料の調達は、林業や木工で難なし。軽トラサウナは林業と木工、自然体験の黄金バランス、宮崎さんがやるべくしてやっているのだ。「たまたま見てた動画にサウナが出てきて、これできるな~とやってみたら、1日でできちゃって。」という。
「サウナはお風呂を沸かすより薪を使う量が全然少なくてエネルギーの節約にもなるし、使い方次第では服を乾かしたりすることもできるから災害の時にもきっと役に立つ。防災についても大事に考えていて、今はメンテナンスもしたいから近場で販売しているけど、これからもっと軽トラサウナを広げていきたいと思っいる。」と、宮崎さんは日々の活動に防災や災害支援にも意識を持って活動を行っている。
昔の暮らしが理にかなっている
昨年から農業も始めた。林業のデメリットとメリットを活かせるのは、農業だという。農業は計画的に一定の収入が得られ、今の林業はいつでも収入になる。デメリットはその逆だ。農業と林業を組み合わせることで、互いに補填できる。稲作に挑戦した宮崎さんだったが、残念ながら、全てイノシシに食べられてしまった。イノシシの多さに驚き、「これはイノシシもとらないかんな。」と、林業、農業、狩猟が必要だと悟った。それは、まさに昔からの四万十川流域の暮らしそのものだった。「昔の暮らしは理に適っている。」と宮崎さんはいう。
100年のために杉苗を植える人
宮崎さんは二宮金次郎の「100年のために杉苗を植える」という言葉を大事にしている。
遠くをはかる者は富み
近くをはかる者は貧す
それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う。
まして春まきて秋実る物においてをや。
故に富有なり。
近くをはかる者は
春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず
唯眼前(ただがんぜん)の利に迷うてまかずして取り
植えずして刈り取る事のみ眼につく
故に貧窮す。
二宮金次郎
ある時、この言葉を記念碑に掘ってほしいと頼まれた。「杉」と言う字を見て「うちはヒノキです」と返答してしまったのは、笑い話だ。お客さんに、これは二宮金次郎さんの言葉ですと教えてもらい、じっくり読むと、全くその通り、素晴らしいと感銘を受けた。当たり前に目先の仕事をしながら、次の時代を見据え準備しなければならない。文字通りの農林業だけでなく、現代の生活にも当てはまる言葉。宮崎さんが目指していたことそのものだった。それから、自分の言葉のように人に紹介しながら、二宮金次郎を布教している。二宮金次郎さんは、今でいえば農山村のコンサルのような人だった。宮崎さんも農山村の復興に関わるコンサル的存在になるかもしれない。
これからは、次世代を育成していきたいと考えている。宮崎さんは、これからも100年のために苗を植えていく。