大川内 憲作(おおかわうち けんさく)

大川内さんの基本情報

昭和31年2月26日生まれ(サザンオールスターズの桑田佳祐さんと同じ)

四万十町米奥出身

どんな少年時代でしたか?

夏は四万十川にいりびたりで、鮎や鰻がたくさん獲れた。火振り漁では膝から下くらいの浅いところには足の踏み場がないほど鮎がいたし、石をはぐれば鰻がいたよ。

小学生の時はソフトボール、中学生になったら野球をしていました。レフトで5番、強肩強打者だった(でも足が遅くて少し残念だったようです笑)。高校では、ブルース・リーに憧れ少林寺拳法に取り組みました。

家業の米穀店を継承 ~創業101年大川内米穀店の三代目~

高校卒業後、東京に出て4年ほどでUターン、その後、家業の米穀店を継ぎました。これまで、苦しいとも楽しいとも思わず、淡々とこなしてきました。腰を悪くして2024年の1月末で創業101年の米屋をたたみました。

Q:プロの目から見て今の米と昔の米の違いがありますか?

今は、ショウガを作るようになったから、早い時期(5月)に植えて早く刈り取る(9月)けど、昔は11月が稲刈りだった。稲刈りの時期が遅い方が昼夜の寒暖差があって、米に含まれるたんぱく質があまり増えなくて、美味しくなる。(※一般的に登熟期間が高気温で経過すると、タンパク含有量が高まり食味が落ちると言われています)

ものづくりへの憧れ ~物づくり工舎 工房~乃至(だいし)

子ども時代から工作が好きで、伝統的なものづくりへの憧れがあった。15年前から本業の米屋と並行して木工を始めました。師匠はおらず、資料や本や実物をみて、試行錯誤しながら独学で技術を身につけていきました。

特選に輝いた名刺入れ

物づくりには性格がでます。例えば100個の名刺入れを作ると20個はハネています。その20個は素人目には区別がつきませんが、プロが見ればわかる。自分が納得したものを作りたい。

釘を使わず伝統技法で組み立てている
鳥居の扁額:文字を浮彫にしてのがポイント
上:引出し
下:竿たて
小学校から依頼:気温や湿度を測る白い小屋(百葉箱)
四万十町旧都築邸(古民家カフェ半平)の模型図:細部まで忠実に再現されている
本格的な賽銭箱
四万十町の緑林公園の新トイレ:屋根に乗っかっているキノコを大川内さんが担当

自伐林家

50~60年生の良質なヒノキ。並べ方にも性格が現れている。

祖父が植林してくれた山が2町(2ha)あって、それが50~60年経っており、林内作業車も購入し収入間伐を自分で行いました。作業道は森林組合に抜いてもらいましたが、林業の技術も自分の頭で考え、実践しながら覚えていった。プロの山師が珍しがって度々見に来て、「これは、てんぽうな(危なっかしい)」と言われました。一度、小さい木をなめてかかって頭を打ったことがある、他にもシイタケのホダ木を伐っていた時、丸太が腰に当って骨を折ってしまったが大事には至らなかった。

1回目の収入間伐は、1町(1ha)ほど行い、コロナによる木材バブルと重なり、単価は良かったです。仕事の合間を縫って3か月くらいかけて搬出しました。今後は残りの1町の間伐をやりたいけど、単価が下がってしまったことが残念。

大川内さんの知的活動

デスクの左側には切り抜きされた新聞がスクラップされている。月に20~30冊になるという。

知識や考えを整理するため新聞の論評、社説、投書などを切り抜き、スクラップにしている。

社会のデジタル化は非常に重要だと思うけど、有事の際は砂上の楼閣になる。アナログの世界には、先人の知恵や経験が活かされていて、例えば、刀の鞘には、刃が痛まないホウノキ木を使います。伝統的な文化や技術を大切にしていきたい。

あと叔父が太平洋戦争の激戦地だったパプアニューギニアで戦死しました。そのため、30代に3回(平成元年、3年、5年)、パプアニューギニアに慰霊巡拝に行き、ジャングルをはい回りながら戦跡調査を行いました。

編集後記

リバーマスターと言われる人たちは、四万十流域という経済的に有利な立地とは決して言えない場所で、自然とうまく共生しながら逞しく生きてこられた方々ばかりだ。大川内さんからも、そんな逞しさと共に旺盛な知的活動が印象的だった。取材後日、これから新聞へ投書するので読んでほしいと原稿を渡された。そこには大川内さんの考えが理路整然と述べられていた。

木工作品もどれも驚嘆するものばかりだった。これを50歳から独学で身につけたというのだから凄い。当財団が貸出している子供用ライフジャケットを大川内さんのご自宅で保管してもらっている。米奥での水遊びでライフジャケットが必要な時は、大川内さんに声をかけてみるのも良いだろう。気さくに対応してもらえると思う。