四万十川流域では、豊饒な水と森の恵みを得て、河口域四万十市(旧中村市)付近の一条文化、源流域周辺の津野山文化という地域固有の文化が栄え、先人たちの生活を今に伝えるさまざまな伝統文化が引き継がれています。
四万十川の源流域である津野山地域(檮原町・津野町=旧東津野村)は、延喜13年(913年)、京より津野経高が入国し津野庄を築いて以来、慶長5年(1600年)津野城主親忠死没に至るまでの約700年間津野氏の所領となり、神楽を始めとする信仰文化や、厳しい山里の暮らしを支える農耕文化や生活文化など、さまざまな山の文化が生まれました。 地域には、国の重要無形民俗文化財の指定を受けた津野山神楽を始め、花取踊り、回り舞台での農村歌舞伎などの民俗芸能が今なお伝承されています。また、戦国時代からある茶堂や、茅葺きの里、幕末の志士坂本龍馬や吉村虎太郎らが脱藩していった維新の道、先人たちが営々と築き上げてきた千枚田など、数多くの史跡や民俗文化財、自然文化遺産が残されています。
四万十川の河口に位置する四万十市中村は、土佐の小京都とも呼ばれ、中世には関白一条家の荘園でした。応仁2年(1468年)、前関白一条教房が応仁の乱を避けてこの地に移り住み御所を構えて以来、一条氏は、京の都を模して碁盤目状に街路をひらき、延暦寺になぞらえて石見寺を、京都の石清水八幡宮を勧請して不破八幡宮(国の重要文化財)を建立し幡多地方の総鎮守とするなど、100年にわたり公家文化の花を咲かせました。 一条氏は、京の都の再現に力を注いだばかりでなく、庶民の暮らしや文化を高めるために京の雅びな文化を取り入れ、産業の発展や地方の平穏化にも力を尽くしたといわれ、不破八幡宮での「御輿の洗い」や「神様の結婚式」、「大文字山の送り火」などさまざまな伝統文化が今に伝えられています。
高野三嶋神社の境内に、明治6年に建てられた農村歌舞伎の舞台で、屋根は茅葺き、寄棟造り。左手の神社拝殿からつながる花道や太夫座、囲炉裏、土間など昔ながらの面影をそのまま残しています。回り舞台は、後方で進行を見ながら、把っ手を持って糸繰り機のようにして回す皿回し式舞台で国指定重要有形民俗文化財。10月下旬(4年に1回)、地元村民らによる農村歌舞伎が今なお伝承されています。
県内で唯一現存する芝居小屋。昭和23年に建てられましたが、老朽化が進んだため、平成7年に移転保存されました。客席数は立ち見席も含めて450席。花道や桟敷席などが整う昔ながらの芝居小屋の面影と木造建築のぬくもりをそのまま残した建造物で、コンサートや舞台公演などに利用されています。
木造平屋建て茅葺き、板敷きの素朴な構造の建物です。堂内には弘法大師と津野孝山公を祀り、ここで地区民が輪番で旅人に茶の接待をしたことから茶堂という名前が残されています。街道の休憩所とでもいうべき小建築で、現在町には13カ所の茶堂が残っています。なお、この地方では領主津野氏を追善供養するため建立されたものだと伝えられています。
土佐地方における山村農家の民家。18世紀後期の建造物で、当時の四万十流域山村の生活様式を伝えます。昭和49年に移築修理。国指定重要文化財。
四万十川流域市町で唯一の四国霊場第37番札所。奈良時代、行基により開基、平安時代に弘法大師が四国霊場に定めたものだと伝えられています。本堂は昭和52年に建て直され、不動明王・観音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩の5体の本尊が信仰を集めています。
昭和52年に建設された変5角形の本館と明治24年に建てられた別館があり、館内には農耕用具や生活用具など約1万点を展示しています。
古代の土器片から昭和初期の生活道具までを展示。昔の川舟や漁具などの資料もあります。轟公園内。
土佐一条家にまつわるものや、日本では四天王寺や法隆寺などに4本しか確認されていない七星剣、また明治を代表する中村出身の社会主義者「幸徳秋水」に関する貴重な資料などを展示。桜の名所・為松公園内にあり、天守閣風の館からは、四万十川や市街地が一望できます。
藩政時代から昭和にかけ、四万十川流域での物資の運搬は主に船によるものでした。この船運の最も大きなポイントは四万十市西土佐江川崎で、ここより上流には高瀬舟、下流には「センバ舟」と呼ばれる帆かけ船が航行しました。センバ舟は、江川崎と河口の四万十市中村下田間を下り約1日・上り約3日間をかけて運行。木炭や農林産物などを最下流の四万十市中村へ運び、運搬し終えると海からの風を帆に受けて上って帰って行きました。
しかし、高度成長期となる昭和30年~40年にかけて、陸路の発達と橋(沈下橋)の建設が盛んとなるにつれ、船による物資輸送は徐々に衰退し、130隻以上あったセンバ舟も昭和37年頃には1隻も見られなくなりました。
四万十市中村の幡多郷土資料館には、四万十川の舟大工さんらの手により当時の五分の一の大きさで復元されたミニセンバ舟が展示されています。
橋のない時代には、「渡し船」(当番制で船頭さんが小屋にいつもいました)や、川の両岸にロープを渡し、それを手繰って渡る「引き船」(対岸に船があってもロープを手繰れば、船がこちら側に引き寄せられるから船頭さんはいつもいなくても大丈夫です)が対岸とつなぐ唯一の交通手段でした。
そのうち、明治以来の歴史を持つ「勝間の渡し」は、四万十市中村久保川地区と対岸の勝間小学校を結ぶ「学童渡し」として、平成14年3月まで船頭さんが、川舟で通学児童を送迎していました。
神話を劇化したもので、延喜13年(913年)藤原経高が京より津野山郷(現在の津野町(旧東津野村)と檮原町)に入国し、三嶋神社を守護神として祀られた時代から代々の神官によって舞い継がれたものと伝えられています。全てを舞納めるには約8時間を要する勇壮な神楽で、檮原町では「津野山神楽」、津野町では「津野山古式神楽」として毎年10月末~11月にかけて、津野山一帯の神社で奉納されます。また、四万十川流域には、この津野山郷から伝わり旧十和村の神職・平野家によって伝承されてきた「十和神楽」もあり、毎年秋の星神社大祭に奉納されています。いずれも国の重要無形民俗文化財。
宇和島を中心とする南予から北幡に伝わったもので、神社の幟を身にまとい、眉間に白幣を垂らした牛鬼が、厄払いをしながら集落の一軒一軒を回ります。旧十和村では曽我神社の秋の大祭(11月)に、旧大正町では熊野神社大祭(8月・11月)と仁井田神社大祭(11月)で見られます。
カラフルな衣裳に大太刀・小太刀を持って舞う郷土芸能で、四万十川流域では数多く伝承されています。地域によって衣裳や踊りの形が少しずつ違いますが、その起源はおよそ500年以前といわれ、一説には中村の一条公が京都より伝えた踊りを奇襲戦法として用いたのが始まりとも伝えられています。主に秋祭りに奉納され、船戸(津野町・河内五社神社)、川奥(四万十町窪川・白河神社)、仁井田神社(四万十町大正)の花取踊りなど、流域各地で見られます。
旧宇和島藩・伊達文化の流れをくむもので、締太鼓の響きと共に鹿に扮した5人の子供たちが、1頭の雌鹿を4頭の雄鹿が奪い合う様を舞う郷土芸能。四万十市西土佐では毎年4月と11月の金刀比羅宮大祭で、四万十町十和では11月1日の地吉八幡宮大祭で奉納されます。
一条公が京都の石清水八幡宮を勧請して幡多の総鎮守とした古社で、本殿は国の重要文化財。大祭は一条公が幡多の文化を高めるために始めたといわれ、四万十川でのみこし洗いや、あげ馬など多彩な神事が繰り広げられます。中でも対岸の一宮神社の女みこしが川舟にのって輿入する「神様の結婚式」は、当時の掠奪結婚の蛮風を戒めるために始めたものと伝えられ、全国でも珍しい神事として注目を集めています。10月9・10日。
小京都の昔を今に伝える盆行事で、約530年前、応仁の乱を逃れて中村に下った一条教房の息子・房家が父と祖父・兼良の精霊を慰め、都を懐かしみ、京都如意岳の大文字焼にならって始めたと伝えられています。四万十川河口近くの四万十市中村間崎地区の住民によって行なわれ、中村の夏の終わりを告げる風物詩ともなっています。旧7月16日。
土佐3大祭の一つと言われ、「一条公(いちじょこ)さん」の名で親しまれているこの祭りは、中村の開祖一条教房を祀る社殿の建立を記念し、江戸末期に始まったと伝えられています。期間中一条神社を中心に、稚児行列や奉納神楽、相撲大会などが開催され、家々では無礼講の酒肴のもてなしをするのが慣わしとなっています。11月23~25日。
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*年によって開催されない祭事もありますので、詳細は各市町村役場などでお確かめ下さい。