大水の時には水面下に沈む欄干のない特徴を持つ沈下橋は、集落同士をつなぐ生活道として、また憩いの場、子供たちの遊び場として、四万十川流域の人々にとって、なくてはならない生活の一部となっています
四万十川に架かる沈下橋の原形と言われているのがこの一本橋です。この形状は「流れ橋」と言われます。沈下橋は大水の時は水面下になりますが、この橋(木を束ねた板)は流れてしまいます。しかし橋の片方がワイヤーで繋がっているため流出を避けることができ、水量が戻った時に橋をたぐり寄せて、石積みの橋脚にのせます。 四万十源流地の津野町に架かっていますが、管理は地元の人が当番制で行なっており、大水のあとに橋を戻す時の段取りとか、日ごろの監視をしています。木の橋だけにキノコ類が生えているなど、なんとものどかな橋です。
平成11年に高知県が全国の一級河川及び支流を対象とした沈下橋保存に関する調査(回収率100%)を行ないました。その結果、410の沈下橋が現存し、高知県以外では、三重・徳島・大分・宮崎県に多くあることが分かりました。また、その呼び名は、潜水橋が最も多く、もぐり橋が続き、潜没橋や潜流橋、沈み橋という県もありました。同時に行なった調査で保全の動きや保全計画は、他府県ではなく、沈下橋は徐々に撤去の方向にあります。
沈下橋は、お隣の国の韓国にも架けられています。ソウル近辺にある沈下橋は、漢江(はんがん)という韓国を代表する河川に架けられ、ソウルへの重要な架け橋になっています。この橋は2段になっており、下側が沈下橋。これは軍事的な要素があり、下側は攻撃を受けにくいとか、上段が壊されても下段が残る可能性があるということです。
なお、余談になりますが大正時代、高知市の柳原に架けられた沈下橋が、国内最初の沈下橋と言われています。当時、中国を視察した時に高知市の技術士が感銘を受け、数十回の上京により、本省の係官を説き伏せたと記録に残っています。
四万十川流域で、市町の道路台帳、農道台帳、林道台帳に記載されている沈下橋は、本流に21橋、支流に26橋あります。本流に架かる沈下橋をチェックするだけなら、1日で周れますが、橋を徒歩で渡ったり、中央部で座ってみたり、はたまた寝転んだり、いろんなことを満喫するためには、2~3日くらいでゆっくりと周るのがいいでしょう。
位置:中土佐町(旧大野見村大股) 架橋年度:昭和40年
四万十川本流の最上流にある沈下橋です。下流側に新堤ができ、板橋が浮くようになったために旧堤の上に造られました。
位置:四万十町(旧窪川町一斗俵) 架橋年度:昭和10年
戦前に架けられた橋で現存する一番古い沈下橋です。現在は通行止めになっていますが、夏場は、子供たちの水泳場に利用されています。※この沈下橋は、文化財保護法の登録文化財として、平成12年12月4日に登録されました。
位置:四万十町(旧大正町上岡) 架橋年度:昭和38年
橋脚が丸みを帯び、さらに床板の下部が曲線を描くというユニークなデザイン(屋内大橋を元に設計)。水流の抵抗を少なくした以上に、遊び心が感じられます。
位置:四万十町(旧十和村津賀) 架橋年度:昭和45年
通称、茅吹手沈下橋と言われています。この沈下橋は、平成9年のJRのフルムーンポスターに利用され、加山雄三夫婦がロケに訪れました。
位置:四万十市(旧西土佐村口屋内) 架橋年度:昭和30年
すぐ下流で黒尊川との合流地点があります。大胆な曲線は近くで見ると大変迫力があります。初夏から秋にかけて多くの観光客が訪れています。
位置:四万十市(旧中村市今成向イ) 架橋年度:昭和46年
「佐田の沈下橋」としてなじみのある橋で、かつ四万十市街から車で10分以内の距離であるため、多くの観光客も訪れます。四万十川最長かつ最下流の沈下橋です。
四万十川の本流に架かっている沈下橋のうち、四万十町(旧窪川町)の一斗俵沈下橋と四万十町(旧十和村)の里川橋を除いたすべての橋が昭和30年代以降に架設されています。それは高度経済成長期に入り、流域の交通手段が筏・センバ舟・高瀬舟などから、車・トラックに変わったことが大きく影響しています。
四万十川に沈下橋が多く見られるのは、通行量を鑑み、建設費を低く抑えることが目的であったとも考えられます。橋脚が低く、欄干がなく橋長も短くてすむからです。沈下橋は、自然と調和した構造物として、四万十川の魅力を形づくっている重要なもので、生活文化遺産として原則、保存することとしています。
増水時における沈下橋の通行には、特に規制などはありません。それは今日まで、限られた人たちが生活道として使用し、その安全性は経験として認識しているからです。しかし、増水を始めて水位が沈下橋の橋板スレスレになった時が大変危険で、川に目を配るとスーッと川に吸いこまれそうになります。増水時には渡らないようにしましょう。